彼と、僕。

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彼と、僕。

「あら、お知り合い…?」 「え、……えぇ……」 けれど、それはもうリンがよく知るヨークルとは大違いだった。  ヨークルのくすんだ眼に映るのは、エリートチームの死体。彼は、ただ無機質な表情で、光線機銃(レーザーガン)を肩からぶら下げて、リンの方を見た。 「……リンか…」 「…ヨークルさん…?…あなたがやったんですか…?」 「……」 「…違いますよね?何かの間違いですよね…?たまたま出くわしただけなんですよね…」 「――リンくん」  ティアに名前を呼ばれたリンは、ふいに自分が訳の分からない事を口走っていた事に気づく。  そう。  この状況は、リンにとって“訳の分からない”状況だった。 「あなた、幹部の人…?」  ティアは、困惑して今にも吐瀉してしまいそうなリンの前に立ちふさがってヨークルに向かって言った。 「…あぁ、……そうだ…」  ヨークルは、その無機質な表情で少し苦しそうな声で言った。リンは、そんなヨークルの声を聴いて、言葉にならない叫びをあげる。そんなリンの感情を察したティアは、ヨークルに携帯拳銃を向けた。 「……や、……やめてください」  リンは、そうやって弱弱しい声で彼女に言った。ティアは、そんなリンを哀れむような目で見る。  リンは、視線を下に下ろす。  血まみれのフロアの床。  それは全てエリートチームの鮮血だった。おそらく、リンとティアが階段を上っている数十分の間に、ここでは激闘が繰り広げられていたのだろう。そして、結果――エリートチームは全滅した。  ヨークルの手によって。  独りぼっちだったリンを救って、いつだって彼を見守ってきたヨークルの手によって、このフロアは血で染められたのだ。 「……いつから……」  リンは、胃の残留物を吐き出してしまいそうになりながら、自分のよく知る筈のヨークルにそう言った。 「もう、ずっと前だ…」 「…ずっと前…」 「あぁ、お前と出会う、少し前だ」 「……そんな前から…?」  ヨークルの声は、リンがよく知る底抜けに明るい陽気な声とは大違いで、今までに一度も聴いた事のない暗く淀んだ声だった。 「TEAの知能指数試験に落ちた時に、絶望したんだよ」  ヨークルは、自分から話を続けた。    今から、九年前の話になる。  ヨークルは十六歳の青年だった。TEAのヘッドチップでの知能指数検査であっけなくTEA局員の入局試験を書類審査の段階で落とされてから、一年が経とうとしていた。彼の学生時代は、ほとんどの時間をTEA武装局員になるために費やしていた。毎日何キロも走り込みをして、筋肉トレーニングも当然欠かさなかった。同年代の男子とは比べ物にならない程、強靭なものへと進化した彼の肉体と正義感は、入局試験に落選した事で、あからさまに分かりやすく落胆していた。絶望の淵だと言えば、そうなるのだろう。  そして彼は、絶対に踏み入れてはいけない領域へ、足を踏み入れてしまう。 「……ダミーチップに出会ったのね…」 「あぁ、そうだ」  もはや言葉すら出ないリンの代わりに、ティアがヨークルにそう言った。  ヨークルの中で、いつの間にかTEAに対する感情は「憧れ」から「恨み」へと変わっていた。自分のような優秀な人間を「頭が悪いから」という理由であっさりと選考対象から除外してしまうTEAに対する怒りに近かった。それは、圧倒的な正義感の裏返しなのかもしれない。もともと、TEAに憧れてずば抜けて高かった正義が、丸ごと裏返ったのだから、その不義(ふぎ)は、同じくとてつもない大きさだったのだろう。彼が、ダミーチップを装着するのに、そう時間はかからなかった。  彼にダミーチップを提供したのが、「エクエスの光」であり、肉体が強靭であった彼はわずか五年で「エクエスの光」の幹部へ上り詰めた。 「……あの日、僕に話しかけたのは……?」  リンが、ティアの肩を掴んで、前に出る。 「……聞きたいのか…?」 「――だめよ」  ティアがそう言う。  強く言い放った彼女の碧眼は、リンの口を完全に封じた。 「そうか……じゃあ、邪魔しないでくれ」  ヨークルはそう言う。  そして、ヨークルは窓に向けて光線機銃を構えた。リンは、ただ、その姿を眺めるしかできなかった。ティアは、ヨークルが何をしているのか理解できなかったようで、ただその場で固まることしかできなかった。そして――。 ――ビュンッ  光線機銃が発射される。  通常の弾丸を使用しない光線機銃の発砲音は、まるで空気を切る音しか聴こえない。光線機銃の構造は、もちろんリンだって充分に理解している。発射機構の構造や射程距離さえも。 「……まさか…」  ティアを差し置いて、リンが先にヨークルの意図に気づいた。  そして、慌てて窓の外を見た。光線機銃の光線弾は、厚さ一メートルのコンクリートくらいなら簡単に貫通してしまう。 「これで、当たっただろう…」  ヨークルはそう呟く。  彼が狙ったのは、エリートチームのオペレーターだった。ここからの距離は、二百メートル程。この三十八階からは、ほとんどのビルを見下ろす事ができ、エリートチームのオペレーターのいるビルが丁度見える位置だった。 「一人残された人間は辛いだろ」 「あなたが奪ったくせに、随分と慈悲深いのね」 「あんた程じゃないさ。“涙無しのティア”」 「あら、久々にそんな名前で呼ばれたわ。アタシも有名になったものね」  ティアは、そうやって、平然とヨークルと会話する。  きっと、光線弾はオペレーターに直撃したのだろう。ヨークルは、顔に付着した鮮血を腕で拭き取りながら、光線機銃の残弾数を確認していて、自分から話始めた。 「それで、俺に何の用だ」 「言わなくても、分かってるでしょ?」 「殺すのか?生け捕りか?まぁ、どっちにしろ、お前らには無理だろな」 「あら、どうして?あなた、アタシの異名を知っていながら、随分面白い事言うのね」 「…その異名は、無慈悲に人を殺す事からつけられた名だろ?」 「そうね」 「あくまで、殺し方の話であって、あんた本人の強さを示す異名じゃない」 「あらら、イタいところを突っつかれたわ」  ティアは、そうやって笑う。自分の身体も血しぶきで真っ赤になっている事なんておかまいなしに、彼女は満面の笑みだった。けれど、一切目線を落とさずに彼女は手元で旧世代のアサルトライフルをリロードしていた。いざ発砲する時にジャム(弾詰まり)を起こさないためだろう。そして、その瞬間は訪れる。 ――ティアは何の前動作もなくアサルトライフルをヨークルに向け、トリガー(引き金)を引いた。  耳を劈くようなアサルトライフルの銃声が、三十八階のフロアに響く。発砲から伝わった振動が、ティアの身体を揺らして、その金髪が揺れた。  けれど、その弾丸がヨークルの眉間を貫くことはない。驚異的な反射能力によって、ヨークルは弾丸を躱してしまう。そして、ヨークルはその強靭な腕力で、持っていた光線機銃をティアに向かって思い切り投げた。ティアは、間一髪のところでその投擲を回避する。後ろの壁に激突した光線機銃は、凄まじい破壊音とともに、その鉄筋コンクリートを破壊する。もしも、その攻撃を喰らっていたなら、今頃ティアの身体はコンクリートのようにバラバラになっていただろう。光線機銃は、その複雑な構造を持つ故に、外装は特殊な金属によって軽く頑丈に造られている。まともに振り下ろせば、人間の頭蓋骨なんて簡単に叩き割ることができるほどなのだ。 「あっぶないわね~」 「よく避けたな」  そして、ヨークルは地面に落ちていた片手サイズのコンクリートの破片を手に持つ。次の彼の行動は、ティアにだって理解できた。  目の前で突然起きた戦闘にただ茫然と立ち尽くす事しかできなかったリンの腕を掴んで、ティアは物陰に伏した。彼女の予想通り、その次の瞬間にはヨークルの砲弾のような投擲が頭上を飛び交った。 「なっ――」  あまりにも急すぎる出来事に、リンは上手く言葉を発することができなかった。  間違いなくリンも殺すつもりだったのだろう。その事実に気づいたリンは、今にも叫び出してしまいたいぐらい不安定な気持ちになる。泣き出したいような、怒りだしたいような、様々な感情が彼の中で同時に交錯した。 「頭出さないでね、吹き飛ぶわよ」 「は、はい…」  リンとティアがそんな会話をしている中でも、ヨークルは、新たに瓦礫を拾って物陰に隠れている彼らに向かって投擲する。そんな中、ティアはリンを伏せさせて、常時物陰から物陰へ移動を続けた。同じ場所にとどまってしまうと、おそらく簡単に物陰ごと貫かれてしまうだろう。 「なんで、こんな力が…」 「おそらく、強化骨格ね」 「人体が損傷する前提の技術じゃないですか」 「エクエスの光の幹部の彼には、そんなの関係ないのかもね」 「そんな…」  もはや、そこにいるのはリンのよく知るヨークルなどではない。  反社会的教団「エクエスの光」の幹部のヨークル・タカト。ただでさえ強靭だったその肉体は、強化骨格により上乗せするように身体能力が上がっていた。その拳を喰らえば、肉体は原型をとどめないだろう。その握力ならば、どんな身体の部位でも簡単に握り潰してしまうだろう。その足で跳べば、ビルとビルの飛び移りなんて容易いものだろう。  彼は、おそらくこの町で最も“強い”だろう。強靭な肉体面でも、恨みにより構成された精神面でも。 「リンくん」 「…な、なんですか…」 「アタシは、彼を殺すわ」 「な、生かしたままなんじゃ…」 「それはエリートチームの任務だわ」 「…ど、どういうことですか」 「アタシは、『殺していい』と言われてるのよ」 「だ、誰に…」  リンの質問に、ティアはにっこりと笑った。  そして、移動し続けたティアはリンを鉄筋コンクリートの壁にリンを伏せさせると、一人で立ち上がった。 「―――ティアさんッ!」   当然、そこはヨークルの投擲の射線に入る。 「あはは、心配しないで?」  けれど、彼女は笑いながら投擲を躱していた。一体どんな動体視力を持っていれば、あの投擲を躱すことができるのだろうか。すらり、と華麗に回避を続ける彼女は、リンには舞っているようにも見えて、思わず目を奪われてしまった。  そして、彼女はヨークルに一気に距離を詰める。 「―――」  ヨークルは、予想外のティアの行動に一瞬、困惑の表情を見せてしまう。ティアは、その一瞬を見逃さなかった。彼女の手に握られているのは、携帯拳銃。アサルトライフルは、リンのそばに放置されていた。  彼女は、ヨークルとの距離を全力疾走で詰めながら、携帯拳銃を一発、発砲した。  そして、携帯拳銃の弾丸は、確かにヨークルの右肩に着弾した。大人の頭蓋骨を優に貫いてしまうはずの弾丸だ。けれど、それがヨークルの右肩を貫くことはなかった。  日々の鍛錬によって出来上がったその分厚い筋肉は、至近距離の弾丸ですらいとも簡単に食い止めてしまう。 「あまいな」 「さぁ、どうかしら?」  けれど、そんな事はティアでも理解していた。走りながらの発砲。そんな不安定な体勢――いや、彼女にとっては撃ちやすい体勢だったのかもしれないが――で、彼女が狙ったのは右肩なんかではなかった。右肩の強化骨格の付け根。その部分を狙うと――。 「――、肩が…」 「動かないでしょ?」 「この女ッ!」  ヨークルの右肩の機能が完全に停止する。  ティアは、ヨークルの機能が停止した腕を掴むと、流れるような手さばきで、彼を地面に押さえつけた。もちろん、ヨークルもただで地面に押さえつけられるつもりはなかった。うつ伏せに押さえつけられたヨークルは、体重をかけて力を加えてくるティアを軽々しく跳ね飛ばそうとした。 「――動かないで、撃つわよ」 「……」  けれど、それよりも速く、ティアはヨークルの後頭部に携帯拳銃を突き立てた。弾はあと一発。ゼロ距離ならば、外すはずもない。 「どうした、殺すんじゃないのか」 「そのつもりよ。でも、一つ訊きたいことがあるの」 「なんだ」 「……今日、偵察(ここ)に来た本当の目的はなに?」 「それは、あんたもだろ」  ヨークルは笑った。 「質問に答えなさい。本当は、もっと別の目的があるのでしょう」 「さぁな。だが、あんただってリンに話してないことがあるだろ?」  物陰で伏していたリンが、その言葉に疑問を感じた。 「西カルミアに来たのは、リンを仲間にするためじゃないはずだ。――“回収”しに来たんだろ?」 「――黙りなさい」 「はははっ!怖いなぁ、武装局員(ガンナー)のティア……いや、……異端者(イレギュラー)のティアと呼ぶべきか…?」 「黙りなさいと言ってるのよ」 「嫌だよ、――おばさん」  ヨークルがそう言った瞬間だった。  ティアが携帯拳銃を発砲する。    ヨークルは沈黙した。  ゼロ距離からの携帯拳銃の発砲。当然外れるはずもなく、弾丸は確実にヨークルの後頭部に着弾した。 「……だから、あまいんだよ」 「―――」  けれど、ヨークルは絶命していなかった。  あの余裕は、“そこ”にあったのだ。  勢いよく身体を起こして、ティアを弾き飛ばしたヨークルは、そのまま今度はティアを地面に押さえつけた。 「安心しろ、一瞬で殺してやる」 「無理よ、あなたにはね」  ティアは、自分の命が危ない状況でも、まるで空游艇(スカイボート)に居た時のように、軽やかに笑って見せた。 「―――」   次に三十八階のフロアに響いたのは、旧世代のアサルトライフルの銃声だった。  発砲したのはリンだった。自分が剥ぎ取って手に入れたアサルトライフルを、士官学校で習った通りに発砲する。その弾丸は、見事にヨークルのこめかみに着弾した。 「…――リン」  一発ではなかった。  ニ、三、四、五。初めは、微動だにしなかったヨークルの身体も、連続して全く同じ部分に銃弾を直撃されると、さすがに身体のバランスをずらしてしまった。 「……ごめんなさい、ヨークルさん」   リンは、発砲しながらそう呟いた。  彼の射撃技術は、単純な精度で言うなら士官学校でもトップクラスの成績を残すほどだった。当時、光線機銃の遠距離射撃において、一km先の標的をいとも簡単に的中させてしまう彼にとって、この距離の停止している的など、それこそ外すはずのない事実であった。  そして、ティアは、一瞬バランスを崩したヨークルの手首をナイフで切り裂く。おそらく、下っ端たちから回収していたのだろう。  首の付け根、特殊金属で構成された強化骨格でも、基本的な構造は人間の骨格と同じである。ティアが狙ったのは、骨格と骨格の付け根。そこを狙った理由は、右腕の機能を停止させたのと、全く同じだった。 「――」  ヨークルの左手は、そうして動かなくなった。彼も、それに驚きを隠せなかった。今まで、メンテナンスを怠った事で、動かなくなった事はあったものの、完全に機能を停止したのは初めてだったのだ。  結果、ティアは困惑して身動きが取れなくなったヨークルから素早く離れた。 「はははは」  そして、彼は笑い声を上げた。   まるで狂ったように、笑い声を上げた彼は、そのまま動かなくなった右腕と、左手をぶらぶらと振り下げながら、立ち上がる。  リンは、そんな彼にアサルトライフルを、また二発発砲した。   着弾したのは、両目。  いくら強化骨格で半人造人間状態であったとしても、どれだけ厳しい鍛錬を耐え抜いて強靭な筋肉を手に入れたとしても。網膜は強化できない。 「あぁぁっ!」  両目を潰されたヨークルは、しかし血が噴き出す両まぶたを押さえることができず、そのまま後ろへふらついてしまう。そして、また狂ったように笑いだした。 「リミッターが外れたかしら?」  リンは、おかしくなってしまったヨークルの姿をなるべく見ないようにしながら、ティアのもとへと近づいた。 「……殺すんですか…」 「もちろん」 「ティアさんは、何者なんですか」 「あら、面白い質問ね」  そんな会話をしている中、ヨークルは狂ったように笑い続けた。そして、ふいに笑い声が止まる。  ティアは、警戒心を引き上げた。  ヨークルは、まるで身体全体の機能が停止したように、ぷつりとその場で固まってしまった。 「……ヨークルさん…?」 「だめよ、話しかけたら」 「どうしてっ!?」 「補助装置が起動したわ」 「補助装置…?」 「えぇ…ダミーチップにのみ搭載されているものよ。知能を著しく低下させる代わりに、他の脳機能を限界まで――いや、限界以上に引き上げてしまう荒業よ。当然、脳への負担は計り知れないわ」 「なんでそんな事…知ってるんですか…」  リンは、ティアにそう訊く。  ずっと信頼していたヨークルが、実は反社会的勢力に所属する人間だった。それが、リンの心を臆病なものへと作り変えてしまった。今まで、まともに疑ってすらいなかったが、このティアも充分過ぎる程に怪しい存在だった。  唐突にリンの目の前に現れて、訳の分からない言動を繰り返して、最終的にはこんな最前線へ彼を連れ出していた。これでは、疑わないほうがおかしい。 「…怯えてるわね」 「いいえ、疑っているんです」 「違うわ。あなたは怯えている。どうしようもないぐらい、怯えているわ」  ティアは、その碧眼でリンの極東人種ならではの黒目を覗き込む。まるで、心を見透かされているように感じた。 「ここから先のメンタルプランは、設計されていないのね」 「……?…メンタルプランってなんですか…?」 「――話はあとよ」  彼女は、そう言うと、下っ端たちから強奪したアサルトライフルを瓦礫の下から拾い上げた。そして、再びヨークルに向ける。 「光線機銃なら簡単に殺せるんだろうけど、どうやら弾切れらしいからね」  そうして、ヨークルに向かって発砲した。一発、また一発と、弾丸が彼の身体に着弾した。けれど、弾丸が彼の身体を貫通することはなく、流血はしても、強靭な筋肉と強化骨格で出来上がったその身体に致命傷を与えることはできなかった。 「……――」  そして、ヨークルの身体が前方へ傾いた。 「――」  リンが“それ”の意味に気づいた頃には、もう目の前にヨークルの姿はなかった。  前傾姿勢からの飛び込むような形からの、高速移動。それは、アスリートのクラウチングスタートに似ていた気もするし、獣のような走り方といえば、そう見えた。  タックルするようにヨークルはティアに突っ込んだ。そのまま彼女は吹き飛ばされてしまい、壁に激突する。言葉にならない激痛に悶えたかと思えば、そのまま気絶してしまった。  地面に倒れ込んで完全に気を失ってしまった彼女を見下ろすヨークルは、獣のように荒い息をしている。丸めた猫背、肩からぶら下がった両腕(右肩はもとから動かないけれど)。それは、どうみても人間の風貌ではなかった。 「……ヨ、…ヨークルさん…」  振り返ったヨークルは、荒い息のまま、リンのほうへと近づく。 「……――」  そして、ヨークルはリンの肩を掴んだ。がっしりと掴まれた肩に、凄まじいほどの激痛が走る。けれど、リンは声すら出なかった。痛すぎて声が出なかったのもあるが、何よりもヨークルの表情を見て、頭が真っ白になってしまった。 「……ぜんぶ、おまえのせいだ」  そして、ぽつりと、ヨークルはそんな事を口にした。その顔には、悲しみや苦しみ、悔しさのようなものがべったりと張り付いていて、陽気だった頃では考えもしなかった顔をしていた。まるで、今にでも泣き出してしまいそうな、そんな顔だった。 「……ヨークルさん…?」 「……おまえにあわなければ……はじめから……こんなことに…ならなかった…」  ツギハギに言葉を並べて、ヨークルはそう言う。  言葉の意味は、リンにだってすぐに分かった。    あの日、あの場所で、リンが本を読んでいなければ、ヨークルがダミーチップに手を出す事はなかったのかもしれない。これは、あくまで可能性の話でしかないのだけれど、それでも、先程の言葉がヨークルの本心だったことはすぐに分かった。 「…ごめんなさい…ヨークルさん」  リンは、そうやって謝罪を口にする。けれど、そんな声がヨークルに届くことはなかった。 「…にんげんですら…ないくせに…」  憎しみの籠ったその声に、リンは思わず耳を疑った。  “にんげんではない”と。ヨークルは、確かにそう言った。  すると、ティアが意識を取り戻して、のっそりと身体を起こした。 「……リンくん……」  そして、今にも途絶えてしまいそう弱弱しい声で、そう言う。 「……だまれ。…だまれ、だまれ、だまれっ!」 「――」  突如、暴れ出したヨークルは、起き上がったティアに向かって、また突撃しようとした。けれど、リンによって足を撃ち抜かれて、ヨークルはその場で躓いてしまう。  それからしばらく沈黙が続いて、ヨークルは口を開いた。 「……殺してくれ、リン」 「…できない…」  躓いて地面に伏したヨークルは、もう立ち上がる力すら残っていないようだった。そもそも、ダミーチップをつけている事自体、脳への負担は大きいらしい。そのうえで補助装置が起動した場合の脳への負担は計り知れない。肉体面では、まだまだ余力はかなり残っているのだろうけれど、それを動かす神経が、もうほとんど残っていないのだ。 「……殺してくれよ」 「無理だよ」 「……これ以上、お前を傷つけたくない…」 「じゃあ、どうしてエクエスの光になんて入ったんですか…」 「……」  現在、ヨークルは脳へ負担をかけ過ぎた所為で、補助装置が切れた状態にある。ようするに、脳死一歩手前の瀕死状態ということだ。 「……本当は、もう辞めようと思っていた…」 「……だったら、どうして…?」 「……お前を見返したかった…」 「あなたは充分、僕よりも立派だった」  リンはヨークルが誰より誠実なのをよく知っていた。リンがヨークルと仲良くなり始めた頃には、もう既に彼はいくつもの仕事を掛け持ちしていた。きっとその頃には、ダミーチップを装着していたのだろうけれど、それでもリンの目に映っていたのは、いつも笑顔でそつなく仕事をこなすヨークルの姿だった。みんなに平等に優しくて、いつも笑顔で、一緒に居て安心できるような、そんな存在が彼だったのだ。今朝出会ったヨークルもそうだ。ボロボロの作業着は、十代の頃から働いている工場での制服で、そこでも彼は充分すぎるほどに人気者らしい。 「……それは違う。俺は、お前には絶対に敵わない」 「…なんで…ですか…」  リンには、ヨークルが自身を非難する理由が分からなかった。誰よりも強くて、優しくて、明るい彼は、リンにとって憧れだったし、希望だった。士官学校で、訓練で失態をして教官にこっぴどく叱られた日も、誰よりも先にヨークルがリンを慰めてくれた。精一杯表情を隠していたリンなどおかまいなしに、ヨークルは彼を励まし続けた。それが、リンには堪らなく嬉しかったのだ。  しかし、それはすべて嘘だった。  あの優しやや笑顔は、ただのダミーチップの精神安定効果によってもたらされたものだったのだ。 「…どうして…」 「お前が人間ではないからだよ、リン」 「どういうことですか…」 「お前は、初めから全て作られたものなんだ」 「…何の話をして…」 「……Religious Insurgent Netowork……」 「…なんですか、…それ」 「お前だよ」 「…――?」  ティアは、一瞬ヨークルを止めようとしたが、すぐに止めて、リンのそばに近寄る。そして、身体を仰向けにして、掠れ始めた声で、ヨークルは話を続けた。 「…おかしいと思わないのか?」 「…なにがですか…」 「あぁ、そうだろうな。おかしいと思わないだろう。だって“そういうふうに出来てる”んだからな」 「さっきから、何の話を……」 「…突然ハイジャックに巻き込まれて、武装局員(ガンナー)相棒(バディ)に選ばれて、いきなりエリートチームの任務に参加させられる……どう考えてもおかしいだろ?」 「……」  リンの思考は停止していた。  ここに来て、何度も思考が停止している。 「……“思考が停止”するのも、そう簡単に起きることか…?」 「……」  ティアは、ゆっくりとリンのそばまで来ると、二人でヨークルの話を聴くしかなかった。 「……じゃあ、言い方を変えよう」 「……」 「お前、親は…?」 「――え?」 「親だよ。お前を産んだ、親だ」  リンの停止していた思考が、少しずつ不可解な動きを始める。今まで、色々なことをこの一つの脳で思考してきたが、今、十七年生きて、初めて思考することがあった。 ――親ってなんだ。  それは、リンにとって初めて踏み込んだ領域だった。  ふつうの人間なら、物心がついてから何度も頭で思い浮かべるはずの「親」という存在が、リンには決定的に欠陥していた。 「分からないだろ…?」 「…ど、どうして…」  自分の親の名前が分からない。顔が分からない。背格好や口調、声色、髪色、――両親に対するすべての要素が抜け落ちていた。いや、――ちがう。 「おまえに親なんて、初めからいないんだよ」  ヨークルは、今にも消えてしまいそうな声で、そう言った。  リンは、その言葉を信じることができなかったけれど、確かにヨークルの言っている事には合点がいった。 「…ぼくは、何者なんだ…」  リンは、いつの間にかアサルトライフルを手から離していた。地面に落ちたアサルトライフルは、がしゃん、と音を立てる。気が付けば、リンは自分の手の平を見ていた。 「……お前は、――人造人間だよ、リン」 「―――」  ティアが、リンの隣で悲しい顔をしていた。まるで、それはヨークルを哀れんでいるようだった。 「…よくよく考えてもみろって。…ダミーチップが世に出始めたのはいつだ?」 「…僕が産まれた頃――」  リンの年齢は十七歳。  ダミーチップの存在が知れ渡ったのも、十七年前。  これは偶然なのだろうか。 「……ダミーチップを着けてから、エクエスの光で色んな事を調べてきた。あそこはすげぇよ、いろんな社会の闇が募ってる。当然、世界政府の極秘事項も眠ってたぜ…」  ヨークルは、苦し紛れに笑っているように見えた。それを見たティアは、ヨークルが次に言うであろうことを、自分から話し始めた。 「…ダミーチップの存在をいち早く発見した世界政府は、TEAを発足すると同時に、ずっと渋ってきた人造人間計画を実行したの。……そして産まれたのが、あなた」  ダミーチップを発見。  TEAを発足。  人工衛星スキャンでダミーチップ装着者を洗いだそうとしたが、失敗に終わった。諦めかけた世界政府は、かつて否決に終わった「人造人間計画」を再び始動させることになった。いうならば、それは秘密兵器であり、これから起こるであろう凶悪犯罪に対する最終兵器のようなものだった。 「アタシの本当の目的は、――世界を救う鍵であるアナタを回収することよ」 「……じゃあ、相棒(バディ)になることも…」 「えぇ、…そうよ…オーズ長官が簡単に任務の同行を許したのも、世界政府から手が加わっていたから」 「……そんな…」 「アタシと出会ってから、よく思考が停止することがあるでしょう。それは、本来この状況はイレギュラーだからよ」 「……さっき言っていたメンタルプランというやつですか…」 「そう。人間として極限まで高スペックなものへと遺伝子操作されて産まれてきたあなたをコントロールするためのものよ。いえ、正確には制限するというべきかしら」 「……小さい頃に本を読むのが好きだったのも……」 「えぇ、そうよ。今、あなたのメンタルプランは終結を迎えているわ。早い話、ここから先のメンタルプランは用意されていないの…」  十七年前、急ピッチで肉体や脳の構造はすぐに造ることができたが、その脳をコントロールするメンタルプランは十七年分しか用意できなかったのだ。 「…だから、ここからどうするかは…――あなた次第よ」  リンは、今までの自分の行動を振り返っていた。思えば、不自然な行動をすることが多かったかもしれない。親の存在なんて考えたことすらなかったし、自分がどうやって産まれたかも、知ろうともしなかった。運動するよりも勉強するのが大好きだったのも、ヨークルにTEA局員になるのを勧められて、一切渋ることなく士官学校に通うことを決断したのも。すべて、脳に掛けられた思考を制御するフィルターがあったせいなのだ。  ティアに出会ってからの一連の流れに、疑いをほとんどといっていいほど持たなかった。ふつう、上官にティアの報告や確認をするはずなのに、そんな事、考えすらしなかった。  なぜなら、全て“作り物”だから。 「…アタシは、個人的に、これからもあなたと一緒に居たいわ」 「…どうして…」 「そうねぇ、気に入ったから…?」  ティアは、そう陽気な声で言う。その言動に、ティアの強がりな性格が絡んでいることぐらいはリンにだって判った。 「…ヨークルさん…」 「……俺はもう、だめだ」  もう一歩はおろか、一切身体を動かせないらしい。もう、口を動かすことすら危ういのだろう。 「…どうせなら、お前に殺してほしい」 「……」 「もうすぐ死ぬんだ。ダミーチップに侵されて惨めに死ぬくらいなら、お前に殺してほしい」  リンとヨークルの会話を聞いたティアは、地面に落ちてしまったアサルトライフルを拾い上げて、彼に渡した。リンは、ティアから渡されたライフルの重さを今一度確認する。  そして、仰向けのヨークルに近づく。  一歩、一歩と足を前に進める度に、その歩幅は少しずつ小さくなっていった。  気が付いたころには、いつもそばにいた兄のような存在。いや、――父親だったかもしれない。両親の概念を持たないリンに、「父」というものがどんな存在なのか、未だにいまいち理解できなかったけれど、それでも、自分とヨークルの関係はもはや「弟」と「兄」の関係で片付けられるほどのものではなかった。 「……最後に…」 「…なんですか、ヨークルさん」 「…今までありがとう。…俺、頭わりぃからさ。ありきたりな言葉しか言えねぇけど…」 「……」  ヨークルの家庭は、あまり恵まれているとはいえなかった。だからこそ、彼は若い頃から仕事をいくつも掛け持つしかなかったのだ。 「…おふくろを頼んだ…リン…」 「…はい…」 「ちゃんと睡眠とれよ。いくら人造人間でも、基本は人間と一緒なんだからよ…」 「…はい…」 「あと、女はできるだけ早いうちに作れ。まぁ、俺が言えた口じゃねぇがな…」  いつも、誰よりも自分以外の誰かを優先してきたヨークルに、ガールフレンドを作る暇なんてなかった。少なくとも、表向きには。 「……あとは、……そうだなぁ…」 「……」 「……もっと、楽して生きたかったなぁ…」  ヨークルは、いつもの笑顔でそう言った。  ただ、その笑顔は大粒の涙でぐしゃぐしゃだった。  表向きの彼でも、裏向きの彼でも、いつも努力をしているのは一緒だった。頑張り過ぎた末に、道を踏み間違えた彼が最期に望んだものは「自由」だったのだ。 「…それじゃあ、やってくれ」 「…僕も、…ありがとう…ございます…」  リンの目から、涙は出なかった。  そういうふうに“出来ている”のだから、仕方がない。けれど、ヨークルは、もうほとんど開かなくなったまぶたで、リンの頬に伝う見えない涙を感じた。それだけで、充分だったのかもしれない。 「笑えよ、リン」 「……うん…」 「…お前が救うんだ…」 「……うん…」 「……俺との…約束だ…」 「……うん…」  リンは精一杯、笑ってみせた。  決して涙が伝わない顔で、それでも必死にヨークルの真似をして、笑ってみた。 「……ありがとう…大好きだったよ…――兄さん…」  そして、トリガーが引かれた。
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