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俺はもう必死だった。
彼女に逃げられたら、俺の人生はおしまいだ。とにかく彼女に愛嬌よくして、ゴマすってご機嫌を取って、それで何とかして今回の浮気を水に流してもらわなきゃいけない。
たまたまその時、スーパーの袋に入れたまま調理台の隅に置いてあったジャガイモとゴボウが視界の片隅を横切った。
――なんだ、豚汁なのに、肝心のジャガイモとゴボウを入れ忘れているじゃないか――
こんな緊急事態だというのに、そんな些細なことがとっさに頭をかすめる。だが、それをきっかけに、その昔彼女が教えてくれたジャガイモの花言葉が、俺の頭の中で神のお告げのように閃いた。
ジャガイモの花言葉はたしか「情け深い」とか、そんな感じ。
これだ!花言葉が好きな彼女の機嫌を取るには、これしかない!
俺はビニール袋を手元に引き寄せると、その中からジャガイモを一つ取り出して彼女に見せながら言った。
「なあ……本当にゴメン。もう一度だけ落ち着いて考え直してくれないか。もう七海とはスッパリ縁を切る。今すぐちゃんとした仕事にもつくし、ずっと待たせてた結婚も、ちゃんとした仕事についたらすぐに決断する。
だからさ、ホラ。ジャガイモの花言葉みたいな広い心で、今回だけは許してくれよ……」
気の利いた台詞で少しは彼女の気持ちも和らぐかと期待した俺だったが、全くそんなことは無かった。俺の小粋な言葉は空しく完全にスルーされ、彼女はまるで猪のように俺を強引に押しのけて、猛然と玄関に向かおうとする。慌てた俺は思わず彼女の進路に立ちふさがり、肩をガシッと掴んで引き留めた。
「なあ……頼むよ……心を入れ替えるから……だから……」
「嫌!! もうウンザリなの!!」
俺の手を振りほどいて出ていこうとする彼女と、絶対に離すまいとする俺。
お互い必死で揉み合っているはずみに、ガスコンロの火にかけた行平鍋に、俺の手がうっかり触れてしまった。
「熱ッ!」
反射的に手を引っ込めると、今度は引っこめた手が鍋の取っ手にぶつかり、ガチャンという大きな音と共に鍋が盛大にひっくり返る。熱湯と煮られた野菜がこぼれ落ちて、全部が俺の太ももにぶちまけられた。
「熱ッちちっちちッ!! つうっ!!」
俺が悶絶してひるんだその隙をついて、彼女は俺の手をすり抜けた。俺は火傷の痛みを必死でこらえながら、一旦離してしまった彼女の手をもう一度掴もうと懸命に手を伸ばす。
それを見た彼女は、とっさに調理台の上にあった泥付きの長いゴボウを手に取り、俺の手に向かって鞭のように思い切り振り下ろした。
ピシイッ!!
「痛ぁっ!!」
しなるゴボウに打たれた鋭い痛みで、俺は思わず伸ばした手をひっこめた。太ももの火傷の痛みが徐々に強くなってきて、俺がたまらずその場に崩れ落ちると、解放された彼女はバタバタと玄関に向かって走り去ってしまった。
俺は痛みでもう満足に動くこともできず、去り行く彼女の姿を、すがるような目でただ見つめることしかできない。彼女はそんな情けない俺のことなど一切お構いなしに大慌てで玄関で靴を履き、ドアを開けて出て行く寸前、こちらを振り向いて大声でこう叫んだ。
「ゴボウの花言葉!検索っ!!」
それが、俺が聞いた彼女の最後の言葉だった。
そして彼女は家を出て行き、すぐにLINEはブロックされ携帯に電話をかけても着信拒否され、もう二度と連絡がつながることはなかった――
彼女が去った後、部屋に一人残された俺はしばらく呆然としていた。
絶望と、後悔と、悲しみしかない。
太もものひどい火傷が、ズキズキと俺の精神をえぐってくる。
ゴボウの花言葉……あいつ、最後に俺に何を言い残したかったんだろう?
俺はスマホを取り出し、ゴボウで叩かれた所が赤くミミズ腫れになった手で花言葉を検索した。
結果はすぐに出てきて、それを見た俺はガックリと肩を落とした。わけもなく涙がこぼれてきて、俺はしばらくの間、激しく嗚咽を繰り返した。
ゴボウの花言葉は「私に触らないで」――
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