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「諦めきれないひとがいる」と彼の口から聞いたのは、ほんの偶然だった。
もう告白されても付き合わないと宣言した翌日から、早速のお呼び出しがあった。
休み時間に食堂へ向かっていると、俺の隣を歩く彼にまたお声が掛かったのだ。
前の彼女と別れたって噂がもう大学中に広まっているらしい。次は自分だと息巻く子たちが我こそはとタイミングを見計らい、その中を掻い潜って一番に声を掛けてきた甘い香り。
香水かな。俺はあんまり好きじゃない、結構主張の強い薔薇みたいな匂い。
俺と彼が同時に振り返ると、そこにはふんわりスカートに柔らかそうな肩まである髪を靡かせて花のように笑う女の子の姿があった。
胸元結構空いてんな。ちょっと屈んだら下着見えそう。…遊んでそうだなぁ。
外見だけでそんな不躾な感想を抱く俺を余所に、声を掛けてきたその子は笑う。
リップで潤う桜色の唇がそっと彼の名前を呼んで、ナチュラルなのかバッチリなのか分からないふさふさ睫毛を揺らして。
二人きりになりたいのだと言う彼女はちらりと俺に視線を寄越すと、彼の腕を引いて何処かへ連れ去っていった。
「邪魔だ」ってはっきり言葉で言われた方がまだマシだ。その方がいっそ清々しい。
胸を押し当てられながら引っ張られていく彼は申し訳無さそうに俺を見ると、小さく手を振った。
俺はというと別に手を振り返すこともせず、踵を返した。
こういう経験は今に始まったことじゃないからいいけどさ。それにしても、一人で学食ってのもどうなんだろう。
やっぱり購買で何か買って、適当に人の居なさそうな中庭ででも食べることにしよう。
そうして木陰の降り注ぐベンチにてパンに噛り付いているところで、聞き慣れた声が聞こえてきたのだ。
キャンパスって結構広いんだから、別のところでやってて欲しかったよ。
いや、この場所を選んだ俺が悪いのか?
とにもかくにも予想は的中、というか小学生でも分かるが、先程の子はやっぱり彼女の座を狙って奴に告白している真っ最中のようだった。
途切れ途切れに聞こえる高い声と、聞き馴染んだ落ち着きのある声。
中庭は人気が無く、ざわざわと草木が風に揺られる音とパンを齧る度ガサガサ言うビニール袋の音、それからこの穏やかな空間には不釣合いな甲高い声が響いた。
初めこそ穏やかに話し合いがなされていたようだが、途中から彼女の態度が一変したらしい。
そういやもう告白されても断るって言ってたもんなぁ。本当に断っちゃったのか。それで彼女、怒ってんのかな。
今まで告白を断らないことで有名だった彼に、自信満々の想いが打ち砕かれたんだろう。そりゃあ、怒りたくもなるか。
泣いてその場を去ったりしないだけ、肝が据わっているとも言えるが。
物凄くどうでもいい話だけどそう言えば、あいつが告白を受けて付き合ってきた子って皆結構我が強かった気がする。
我が強いっていうか、あんな風に自分に自信があって遊んでそうっていうか…そんな感じの子達。
恋愛経験値が豊富そうっていうのかな?ああいうのがタイプなんだと思ってた。
まぁどうでもいいか、と齧ったパンを咀嚼していると甲高い声に混じって聞こえてきたのがあの言葉だった。
「諦めきれないひとがいる」、と。
その一言がやけに鮮明に俺の鼓膜に響いて、リフレインして一瞬身体の動きを止める。
何とか口の中のパンを飲み込んで、暫くフリーズした。
………誰のことだ?
いやいや、何度断っても執拗に食い下がってるあの子を諦めさせる為の嘘かもしんないし。実際大人しくなったみたいだし。
それにもし事実だとしたって、俺には何ら関係無いことだし。動揺する意味が無いっていうか、そもそも動揺とかしてないし。
ただ長い付き合いなのにそんな誰かに片想いしてる風な姿全然見たことなかったから、流石に驚いただけで、そんな。
…俺も知ってる奴なのかな。
いや、どうでもいいじゃんかもう。
というか本当に有言実行しやがったな。まぁいいけど。
常套句だよ、きっと。そうに違いない。
そうじゃなきゃ俺は…。
俺は…?
「盗み聞き、いーけないんだぁ」
「うっわ触んな、食事中だぞ」
ふわりと甘ったるい薔薇の残り香を連れて、背後から肩に手を置かれた。ぼうっとしてた隙を突かれてちょっと悔しい。
「俺の分は?」
「無い」
「買っといてくれてもよくない?」
「ならほら、これ」
「レタスじゃん…」
件の彼女は既に何処かへ去ってしまったらしい。
休み時間は長いから、新しくパンでも何でも買ってくればいいのに何故か彼は俺が手渡したレタスを無言で口にした。
バゲットに挟まってたやつね。
「もう、ほら」
「おぉ、天才!ありがと」
断りも無く俺の隣に座り、無言でレタスを食べる姿が少し可哀相になってまだ袋に残しておいたドーナツを渡す。
甘党の彼にふさわしくチョコレートがこれでもかとかかったそれを見て、幼馴染みは目を輝かせた。
褐色の髪が簡単に柔い風にも揺れて、形の良い耳に光るイヤーカフスを隠しては披露していた。
「結構可愛い子だったのにな」
少し皮肉を込めて言うと、彼のドーナツを食べる手が止まった。
「可愛く見えた?」
「…遊んでそうって思った」
「右に同じ」
「本当にもう誰とも付き合わないワケ?」
「…どうだろう。さっきの、どこまで聞いてた?」
赤い眼差しが左頬に刺さる。きっといつになく真剣な眼差しで俺の横顔を見つめているのだろうその瞳を、覗き返すことが出来なかった。
それが答えだったようにも思う。俺はパンに奪われた口の中の水分を取り戻すように、紙パックのストローを咥えた。
何でブラックコーヒーの紙パックって無いんだろう。俺が見つけられていないだけなのかな。
カフェオレは、俺にはちょっと甘過ぎる。間違えた、これ俺のじゃない。
自分用に買っていたペットボトルのブラックコーヒーは、未だビニール袋の中で出番を待っていた。
「どんな子がタイプ?」
何て脈絡の無い質問。彼の問いも無視したままだ。
けど、他に何も思い付かなかった。
深く考えもせずに言葉を紡ぐこの癖は、子供の頃から治りゃあしない。
隣で激甘ドーナツに齧り付く彼はそんな突拍子も無い質問に戸惑う様子も無く、「んー」と少し唸ってから言葉を発した。
考え無しに言葉を吐き出す俺とは違って、彼はよく考えてから言葉を放つ。その話し方が時にもどかしくもあり、憎らしくもあり、羨ましくもあった。
「どんな子、ね。強いて言うなら、鈍い子かな」
「にぶい」
「そこも良いってコト。あと割と辛辣。良く言えば言葉が真っ直ぐ。他にもいっぱいあるけど、聞きたい?」
「いや、別に良い」
謎が深まりそうだから…。
俺からした質問の癖に急激に興味を無くされたのを見て、幼馴染みは軽く舌打ちをしてみせた。
と言っても、「ちぇっ」という可愛らしいものだ。
それから俺の手の中にあったカフェオレの紙パックを奪い取って残りを全部飲み干しやがった。
ムッとする俺の手に、一体いつから見抜いていたのか、ビニール袋の中のブラックコーヒーを握らせる。
「お代はあとでねー」
「倍返しで」
「理不尽」
カフェオレは俺にはやっぱり甘過ぎたから、ブラックコーヒーの苦味が有り難い。
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