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少し視界が揺れ始め、ふらっと首が傾く。右手の人差し指と中指で煙草を挟み、宙に泳ぐ煙と焼肉から出る湯気が混じり合って煙たい空気に眠気が襲う。
「おいおい藍川、もう酔ってんの?まだまだ飲めるよね?」
向かいの席の田辺という誰が見ても陽気な性格の金髪の男が僕を見て騒いだ。バンドを組んでベースを担当しているというこの男は、顔も整っていて女には困っていないと誇らし気に言い張る癖がある。経験の数が俺のステータスみたいなこの男とはどうも波長が合わない。この男が入社の時から僕の教育をしてくれたのは有り難いが、今後も長い付き合いになると考えると気が重くなる。
「まだ大丈夫ですよ、もう少し付き合います」
付き合ってやってるという嫌味を言ったのは心の内に閉まっておいて、正直まだ全然飲める。
「大丈夫?無理しないでね」
左隣に座っている一つ上の先輩の香恋さんが小声で言ってくれた。穏やかで気の利く、香恋という名前がぴったりな女性だ。何度か二人だけでお食事にも行ったり、仕事終わりに缶コーヒーを片手に愚痴を聞いてくれたり、きっと年下の世話が得意なんだろう。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、吐かない程度に飲んでるので」
優しく柔らかい表現で微笑むあなた、その細くなった目に甘すぎない香水の香りはほんとにずるい。勘違いさせられる男共は無罪であると判決をくだしたい。
「レモンサワーひとつ、藍川と香恋さん次なに飲みます?」
残り少なくなったビールを飲み干すと田辺さんが注文しながら聞いた。
「僕はもう大丈夫です、これ飲み終わったら終電近いんで帰ります」
終電という理由を言えば罪悪感もなく帰りやすいことを僕は知っている。僕のジョッキ内の量をチラ見したあと、香恋さんも僕に続いて遠慮した。一緒に帰ろ、と声にならないほどの小さな声で僕に微笑んだ。その小悪魔みたいな目の意味をなんとなく察してしまって居心地が悪くなる。
「えーもうそんな時間かー。じゃあ残りのメンバーで二次会行っちゃいます?」
「お、いいね。カラオケとかどうよ、田辺も明日休みだろ?朝まで歌い明かそうぜ」
田辺に便乗して、田辺さんと同期の先輩達もノリノリだ。年上の方を見ながら若いな、なんて内心つぶやしてしまう己の老け具合に虚しくなる。あんな軽いノリは大学生時代までに置いてきてしまったようだ。羨ましいなんて思わない。
炭酸の抜けたグレープフルーツサワーを飲み干して、僕と香恋さんはお店を出た。お店の中から漏れる明かりに照らされているせいかお酒のせいか、香恋さんの頬は少し赤くなっているように見えた。
「あ、あの、藍川くん」
上目遣いでチラッと僕の目を見て香恋さんが口籠った様子で話しかけてきた。
「どうしました?」
煙草に火をつけ、深く吸い込んで煙りと共に返事した。数秒間が空き、僕の着ているジャケットの裾を少し掴んで桃色の唇がゆっくり開いた。
「もし良かったら、藍川くんの部屋で飲みなおさない?あのむさ苦しい空間から出たら酔いが覚めちゃった。いや、あの、駄目だったらいいの、全然」
女の武器を使うことを覚えた女子高生みたいなぎこちない表情で僕を見上げた。女性の中でも背が低く童顔の香恋さんは、今日は一段と幼く見えた。こういう時、相手は演技なのか、それとも勇気を振り絞った言葉なのか、または男のストックを増やしたいだけの投資時間なのか疑ってしまうのは悪い癖だろうか。いつからか素直な感情で動けなくなっている自分がいる。
「そうですね、飲み直しましょう。少し散らかっててもいいならですが」
「そんな、全然気にしないから安心して。こっちこそ急に誘ったんだから、服が脱ぎ散らかされてようが気にしないから」
なんだろうな、この久しぶりのモヤモヤした感覚。
「お邪魔しまーす」
そろっと玄関から中を覗き込み、丁寧に挨拶してくれた。パンプスを脱ぐと、振り返って周りの靴まで全部揃えてくれた。こんな気の利く女性を家に上げたことはないな、と心の中に閉まってありがとうと添えた。
仕事終わりからずっとスーツにパンプス、飲んでる間もずっとと考えると女性の正装は足が疲れそうだ。でも今どき女性はラフな私服でいいと言われる会社も多いように思える、そんな不公平はあっていいのか、なんて捻くれた性格で生きている僕からすれば、それはどうでもいいことだった。
「適当に座ってください」
部屋にくる前、コンビニで買ってきたお酒やおつまみの入ったビニール袋を床に置いて、香恋さんはブラウンの使い古したようなソファに腰掛けた。
「すごい、なんかもうお洒落を通り越して...雑」
そんなストレートに言う子だったか?とも少し思ったが、お洒落と言ってくれた事には変わりない。
「物が多くてすいません、落ち着かないですか?」
珈琲のセットや、変わったデザインの文房具、積み上がったメモ帳、小説や漫画の山、変わった砂時計、ノートパソコンの周りに広げられた数冊のノート、趣味の物があちこちに置いてある。
「ううん、こうやって自分の世界観を素直に出してる感じいいと思う。私なんか普通の凡人って感じでさー、個性なんて言葉とはかけ離れた女だよ」
世界観、か。正解の無い永遠の課題のような気もする。僕だって固定した独特さがあるわけじゃない、ただ好きな物に囲まれた結果部屋がこうなっただけなのだ。今朝、珈琲をドリップしたせいかまだこの部屋には珈琲の香りが漂っていて、この空気を深く吸い込み言葉を流した。
「飲みましょっか」
数時間後、僕らの頬は赤く染まって香恋さんは別人のように酔っていた。空き缶がテーブルに乗り切らず床にも並べられている。香恋さんがお手洗いに立つ度に空き缶が蹴られて耳が痛い。
「だーかーらー、そんな趣味してるから女子ウケ悪いんだよー?それに藍川くんあんまり愛想ないしね、もっと笑顔満点で振る舞わなきゃ!」
「仮に作った笑顔でずっといるの疲れません?」
笑顔でいなくても人間関係というのは疲れるのに。いっそ生まれ変わって群れない動物にでもなりたいくらいだ。
「まぁでも、それだけで好かれるなら全然余裕よ」
それだけで、と言えるほど簡単なことじゃない人間だって結構いるはずだ。誰しもが百点の笑顔で振る舞える生き物なら、無愛想なんて言葉は生まれなかったと思う。
「そうですか。そうですね、そういう人もいますよね」
「そんなことよりー、もっと藍川くんも飲まなきゃ駄目だよ。そんなんだから田辺さん達にからかわれるんだからねー?」
酒の飲む量で態度が変わる人間なら、そんな人間こっちから願い下げだが。
「僕だってそこそこ飲んでますよ。というか香恋さん酔うとキャラ変わりますね」
「そう?普通よ普通。たまには飲まなきゃやってらんないのよ」
香恋さんは窮屈そうにしていたジャケットを脱いでシャツ姿になった。香水をスーツに付けていたのか、ジャケットを畳む瞬間にふんわり甘い香りが舞った。
「藍川くんってさ、地毛の色綺麗だよね。ほんのり茶色がかって深いブラウンって感じ。それにさらさら」
胸元のボタンをひとつ外し、僕の膝の上に跨りながら髪を指先で触った。女の匂いがする。
「そうですか?意外といますよこういう髪色の人」
面倒臭いことになりそうだ。胸がざわつく。僕とは正反対の真っ黒髪が僕の身体にふわり落ちる。
「ひどく酔っちゃったみたいなの。この身体の火照り、どうにかしてくれない?もっと熱くさせてくれてもいいんだよ?」
ほらね、面倒臭い...いや、女臭い。甘ったるく絡みつく匂いと脚。
「すぐに肉欲に溺れちゃうようなだらしのない女性に興味はありません...」
うっとりしていた瞳は光をなくした。はだけた胸元を隠し下を向く。沈黙が僕らの首を締め付けた。息苦しさと甘い匂いが酔いを覚まさせる。ノートパソコンが置いてある木製のデスクの引き出しに視線を向けて、胸糞悪い感情を押し殺した。
二日後の出勤で、社内の空気がいつもと違うことを事務室に入った瞬間気づいた。ドアを開けた瞬間視線だけ向けられ、挨拶をしてくる人は誰もいなかった。ひとまず一人になろうとお手洗いに向かうと、後ろから田辺さんが席から立ち、怖い無表情でこちらへ歩いてきた。
「おい、藍川てめぇ」
事務室からは見えない廊下を曲がったところで、いきなり胸ぐらを掴まれ壁に追いやられた。
「はい?」
「はい?じゃねーよ。飲み会の後お前、香恋さん無理やり襲っただろ」
噂というのは怖い怖い。
「え、襲ってないですよ。どこのデマ情報ですか」
「藍川くんに無理やり酒飲ませて脱がされて襲われたって泣いてたぞ。本人が言ってんだデマなわけねーだろ」
本人が言えばすべて本当の情報に書き換わるのならそんな楽な世界はないよ、なんて言えば逆鱗に触れてしまいそうなので深く息を吸って落ち着く。
「確かにあの後飲みましたけど、香恋さんがうちへ来たいと誘ってきたんですよ。何もないですよ」
「へぇ、そうやってしらきるんだ」
「いや、ですから」
「俺の気持ちわかっててそういうことしてんだろ?お前見た目の割にクズだよな」
口調が荒くなる田辺さんに苛立ちを覚え、気持ちいいくらいに口が止まらなくなる。
「人間皆クズですよ。どういうプライベートの事情があろうと会社で暴力沙汰ですか、それも恋愛というつまらない行為が理由で。そんな貴方こそクズじゃありませんか。だいたい人が言ったこと信じすぎなんですよ、そんなようでは詐欺の餌ですよ。それとも香恋さんの言ったことだったら何でも信じちゃうお花畑の脳味噌ですか。これは典型的すぎて笑えますね。そして面白いネタをありがとう田辺さん」
スッキリ言い終えた後、田辺さんの手を振り払いお手洗いへ歩き始めた。何事もなかったかのように、と言いたかったが。
「舐めてんじゃねーぞ!」
背中から鈍い音と痛みを感じで床に倒れ込んだ。後ろから僕の背中を蹴ったらしい。そういうとこだよ田辺。
仕事終わりの夜、顔にできた傷を摩りながら公園の椅子に座っていた。背中にもきっと痣ができてるだろう。理不尽な傷だ。自動販売機と月の明かりに照らされ、缶コーヒーを片手に夜空を眺めていた。
「冷えますねぇ」
自動販売機の前に立ったスーツ姿のおじさんに話しかけられた。
「は、はい。そうですね」
「お隣いいですかな」
五十代くらいだろうか、優しい微笑みを浮かべながら僕の目を見て言った。少し警戒したが、どうぞとお尻を浮かし横にずれた。
「上の空ですな、何か嫌なことでもありましたか?これもきっと何かの縁です、おじさん相手で良ければ話してください」
不思議な雰囲気の方だ。こんなに自然に誰かも知らない赤の他人に声を掛けれる優しさ、初対面のはずだけど居心地が良かった。少なくとも一人よりは。
「今日、上司に殴られました。会社の女を無理やり襲ったとかデマが流れて、男が嫉妬したのか、このザマです」
「ほぉ、それはまた厄介な事に巻き込まれましたな」
おじさんはずっと僕の目を見て深く頷き、僕の口が動き始めるのを静かに待ってくれた。隣には実は誰もいないみたいに心がゆっくり静まっていく。そして風の音だけが僕らを抱き、少しの沈黙の後、僕は独り言のように過去を語りはじめた。
「僕には、大切な女性がいました。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、むしろ終わりのない物語の中にいそうな、静かな女性でした。眼鏡がよく似合い、暖かい季節はベランダで読書ができるから好きだと冬を嫌う、綺麗だけど着飾らない女性が、いました。そんな大切な女性は、今は引き出しの中でしか会えません。引き出しの中にいるあの人は動きません。動いてくれません。匂いもしません、キスもできません、話すこともできません」
気づけば泣きながら話していた。おじさんはひたすら頷くだけ、深く深く、頷くだけ。でもそれで良かった。やっと心の重みが消えていく感じがした。もうそれ以上は上手く喋れなかった。きっとおじさんも聞き取れなかったはずだ。でも話し終えるまで頷くことをやめなかった。その優しさが痛かった。
「あなたにとって、その女性は呪いだね」
「......はい」
欲しかった言葉はそれだったのかもしれない。
「全部吐き出せたかな?幸せでもあり、辛さでもあるよね。怖いよね、人間という動物は」
ほんとにその通りだ。何も言えなかった。
翌日、晴れた休日の朝。ベランダに出て、懐かしい木の椅子に座った。眼鏡をかけて本を開いた。ぼやけて文字が読めなかったのは、眼鏡のせいだと嘘をついておこう。
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