発熱の日のあとに

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 二人の間に時間がゆっくりと流れていた。    里井の舌が奈々葉の舌を味わうように転がす。奈々葉もそれに答える。二人の舌が動くたびニチャニチャという音が奈々葉の口の中で漏れる。    頭がボンヤリとして膝に力が入らなかった。    チン……。    エレベーターの到着音だ。このビルの到着音はチーンというよりも〈カチッ〉に近く固い音だ。    足音が聞こえる。カツカツカツとヒールのある靴らしい音が、一つ、二つと増える。    しばらくして、また到着音がなった。    菜々葉は窓際にある大きな壁掛時計に目をやった。針は八時二十七分を指していた。    菜々葉はハッとして我に帰った。胸が高鳴っていた。身体が熱かった。キスをして胸が高鳴ることなど、ファーストキス以来だ。    ――キャア……とうとう部長と……。   「もう……部長ぅ……私……」    菜々葉は里井の胸元に顔を寄せる。   「ご、ゴメン……俺……」    ――なんで、なんで謝るの?    里井の胸に抱きしめられる。    ♫♪♪〜〜♪♪♫    奈々葉のお気に入りの曲が軽やかに流れ始めた。トートバッグの中にあるスマートフォンの着信音だ。数日前に自分でダウンロードした曲。奈々葉は手探りで自分のバッグからそれを取り出し、スクリーンをタップする。    美希からの着信だ。スピーカー機能に切り替える。   「もし……もし……?」   『あれ……奈々葉、今、どこにいるの? 菜々葉が今日出社するって聞いたから、私も早くって……』    と、いつもは滑り込みセーフといった感じで始業時間直前に出社する美希が言った。美希の声がやけに近くで聞こえるような気がした。   「あ、ありがと。私も会社に来てるの。久しぶりだから、ちょっと早くね」   『ああ、なんだ……』    電話はすぐに切れた。美希がすぐ側にいるような感じがした。また、胸が高鳴る。   「美希……じゃなくて……坂村さん……からです」    再び、里井の唇が短く重なった。    菜々葉が舌先を出すと、里井の舌先がそれを絡め取る。少し離れると、里井との間に銀の糸が伸びる。菜々葉は刺し身でも食べるかのように里井の舌を口に含む。   「……そうか?」    カツカツという音が近づいてシステム営業部の前で止まる。   「近いな」    里井が呟く。二人は少し距離を取った。    ガチャっと事務所のドアが開く音のあと誰かが覗き込む。   「おはようございまーす。電話したら事務所から奈々葉と同じ着信音が聞こえて…………あっ……ジャマしちゃった?」    美希の声だ。奈々葉たちはその場からさっと離れて、乱れたビジネススーツと髪を整える。   「なーんだ、奈々葉、早いのね?」   「……あ、ああ……う、うん……美希も……」    菜々葉は慌てて笑顔を作った。   「まあ、たまにはね」    子犬のような目が奈々葉を見た。その目が部長室の前に立つ里井の方に動く。    里井は指を通して髪を整えている。   「奈々葉……これ……」    美希が自分のショルダーバッグの中から何やら取り出して、奈々葉に手渡した。   「タオルハンカチ……?」    隅に茶色い子犬の刺繍が施されたハンカチ。子犬は美希のトレードマークのようなものだ。   「奈々葉、ここ、ここ……」    美希が表情もなく自分の口元を指差す。彼女自身の唇の周りを指でなぞる。   「えっ……」    奈々葉も手のひらで、自分の口元に手をかざした。   「きゃ……」    ねっとりとした感触が奈々葉の指先にあった。里井と自分の唾液だということは、すぐ分かった。    心臓が飛び出しそうだった。耳まで真っ赤になるのが分かった。    美希の目が里井の方へ動く。   「……あとで、部長にも……ね?」    里井もバツの悪そうな表情で窓の方に目をやる。   「部長は顔、早く洗った方が……」    奈々葉は里井の顔に目をやる。彼の口元がピンク色に染まっている。    ――わ、きゃっ、私の……口紅が……?!    里井の口元はピンク色に染まっていた。幼い子供が母親の口紅を悪戯したときのように……。
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