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打ち明け
翌朝、奈々葉は眠い目を擦りながら出社した。
身体が重かった。プールで長い距離を泳いだあとのようだ。
エレベーターを降りて左に歩くとシステム営業部がある。部屋に入ると背の低い書庫がカウンターになっていて、ドアを挟んで左手が第一、第二と向かい合わせのデスクが七基づつ並んでいた。第一営業部の最奥の漆黒の扉は部長である里井の部屋だ。
「俺さあ……」
里井の大きな声が聞こえた。正面のターミナル駅の西口が見えるガラス窓の側に数名の男たちが集まっている。里井の機嫌を取るいわゆるコバンザメだ。彼らの中心に里井の姿があった。
里井の頬と口元が気になった。無意識に里井の薄い唇を追う。昨夜の出来事と寝室でのキスが頭をよぎり、心臓が速くなった。
「居酒屋で飲んでたんだけどさあ……」
ふう……。
奈々葉は大きく深呼吸をした。
ショートカットで小顔の女性。奈々葉と同期の坂村美希だ。彼女は小顔を近づけ、子犬のように鼻を鳴らした。
「あ、奈々葉っ! おはよう……あれ……お酒くさーい……」
鼻がよく効くのは美希の特技だ。
菜々葉が窓際で部下たちに囲まれた里井を鼻先で指した。
美希の子犬のような目がそれを追う。
里井が酒の匂いをさせて出社することなど珍しいことではなかった。美希が大きくうなづいた。
「美希、おはよ……」
「ところで、奈々葉さあ……今日、何か付けてる?」
図星だった。ティッシュに一滴垂らした石鹸の香りのコロンをスーツの内ポケットに忍ばせていた。昨夜のベッドに眠る夫の横での行為を誰かに悟られるような気がして……。
子犬のような美希の目が奈々葉を探るように見る。
「……えっ、分かる?」
奈々葉は自分の襟を立てて、鼻を鳴らした。
「へえ、何かあった?」
子犬のような目が更に奈々葉に近づく。
コロンは成人式に誰かからプレゼントされた物だった。
「いや……何も……うん……ないよ……何も……」
「ふーん……」
まだ、美希の目が奈々葉を疑っているように見えた。
ふう……。
――さすがに鋭いなあ。美希って……。でも……。
奈々葉は鼻を自分の脇に近づけて、クンクンと鼻を鳴らした。
「で、俺、凄く酔っ払ってたんだけどさあ、家に帰って寝てんだよ。それで部屋も片付いてて……」
里井は、昨夜の出来事を事細かに部下たちに話している。
「実は、俺、相当のキレイ好き……なんてな?」
――どこが? それは違うと思う。
「おお……里井部長、やっぱ凄いっすね」
話を聞いていた里井の周りのコバンザメたちが一斉にざわめいた。
――部長、昨夜のこと忘れてる?
菜々葉は自分のスーツの襟をピンと正した。
「部長、おはようございます」
「お、宮崎、おはよう……」
里井が白い歯を見せる。
里井の笑顔を見ることなど、奈々葉が入社して以来だった。
――部長、元気になってる。忘れてるけど……。よかった、よかったんだ、これで……。
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