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トマト殺し
足を滑らせて階段から落ちかける。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
足が氷の上を滑るようにすうっと伸びていく。平面の先の、何もない空中へ向かって。その瞬間はまるでスローモーションのように、ゆっくり、ゆっくりと、一コマ一コマ進んでいった。
慌てて手すりに手を伸ばす。
全身が心臓になったみたいに、バクバクいっている。
手すりを掴む手のひらも、汗ばんでねばついている。
危機一髪。あぶなかった…………。
咄嗟に手すりを掴んだからよかったものの、危ないところだった。
わが家の階段は、昔ながらの家によくあるように、途中に踊り場のない、一直線のものだ。そして急。足を滑らしたが最後、宙を舞って頭から床に突っ込むことになる。ところどころ壁や段差や手すりにぶつけながら落下することになるかもしれない。
いくら置き場所がないからって、階段のうえに新聞紙を引いてトマトをおいておくなんて、母さんがそんなことをするとは思えない。
これはきっとトマトの陰謀だ。
ぐちゃっと潰れたそれらからあふれ出した汁は、ぼくの靴下を薄ピンクに染めていた。靴下が濡れて気持ち悪い。
ぼくを亡き者にするために特攻してくるとは、もう後がないところまできたのだろう。そして、ぼくの戦いももうすぐ終わりを迎えるのだろう。
ぐじゅぐじゅの死体を新聞紙ごとビニール袋に入れてゴミ箱に捨て、飛び散った血液をタオルで拭く。タオルと靴下は水洗いしてから洗濯機に放り込む。
それらをやり終えて、手を洗っているとなんだか複雑な気持ちになった。
中学生にして殺人犯……。
いや、厳密にいうと、相手は人間ではなくトマトであるから、「殺トマト犯」か。
ぼくは、命を繋ぐためにほかの命をもらうことを「殺す」とは言わない。
生きるためには、動物の肉であれ、卵であれ、野菜であれ、なにかしらを食べなければならない。誰かの何かの命によって自分は生かされているのだ。食物連鎖、というやつである。それらをすべて「殺し」とみなしては、サバンナやジャングル、海のなかは世にも恐ろしい大量殺りく現場ということになる。サバンナやジャングル、海と聞いて、「ああ、あの大量殺りくの行われているところね」と言うようなひとにぼくは出会ったことがない。みな、弱肉強食の世界で起きていることを「殺し」とはカウントしていないのである。
では、その差はなにか。
ぼくは、奪ったあるいは頂いた命をどう扱うか、によると思っている。
カニバリズムについては知見が浅いので除かせてもらうが、相手の命を尊んでいるか、感謝しているか、とかそのあたりにあるように思う。サバンナやジャングル、海のなかで起きていることは自分の命を繋ぐために行われているのだ。この地球に生まれ落ちた以上、そうやって生を繋いでいくしかない。
だから、ライオンがシマウマを歯牙にかけるのも、母さんがトマトに包丁を入れるのも、「殺す」ことにはならないと考える。動物の命を奪うことは、たとえ生を繋ぐためであってもよくないことで、植物を食べるべきだ、というような考えもあるようだけど(ごめん、詳しくは知らないんだ)、ぼくはトマトとの攻防もあって、植物にも意思はあると思っているから、植物は例外、とは考えない。
そうしたら、どうやって生きていくんだ、死んでしまうじゃないか、ってことになるから、動物も植物も互いの尊い命をいただいているよね、命にどちらが尊いとかないよね、ってことで、いただく命には感謝しよう、って考える。素晴らしき日本語、「いただきます」「ごちそうさま」には食卓に並ぶまでのさまざまな工程に携わってくれたひとへの感謝だけでなく、食材となる命に対しての感謝の気持ちも入っていると思うんだ。
反対に、何の目的もなく一方的に相手の命を奪ったり、じゅうりんしたりすることは許されないと思う。ましてや、「この兵器の威力を試したいから」「こいつがむかつくから」「なんとなく」といった理由に基づいた「殺し」なんて最低だ。地球に生まれ落ちた同士だとは思えない。命を奪うときは、奪われる覚悟を持つべきなのだ。自分の命が奪われる理由がそれだったとき、その人たちは受け入れられるのだろうか。
しかし、今のぼくはそんな人たちのことを責められる立場にいない。
トマトたちが死なばもろともの覚悟で特攻してきたのか、ぼくがうっかり踏んでしまったのかわからないが、階段に引かれた新聞紙のうえで、汚い靴下で踏みつぶされたトマトをぼくは食べることができない。ぼくの弱いおなかは、とちどころにぼくをトイレへと誘うことだろう。
つまり、ぼくは、自分が食べるためではないのにトマトの命を奪ったことになるのだ。犯罪に立派もなにもないが、これは立派な「殺トマト」である。
将来は僧侶になりたいと考えていたが、ぼく自身の過ちのせいで、ぼくの夢は破れたのである。飛び出してきたのはあいつらだとしても、轢いたのはぼくだ。自動車事故と同じ考え方である。
もう戻れないところまできているのだ。
洗面台に備え付けられた鏡に映るぼくの顔が、まるで他人のもののように思われた。
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