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Across the Pacific Ocean
三日ぶりの散歩にマックスは千切れんばかりに尻尾を振っていた。ぐい、ぐい、とリードが引っ張られる。
「そうだよな。おまえ、散歩好きだもんな」
大陸西岸をタイフーンが直撃し、昨夜まで叩きつけるような激しい雨が降り注いでいた。風も強く、窓ガラスが始終ガタガタ鳴っていた。
今回のタイフーンは甚大な被害が予想されており、テレビでは連日タイフーン関連のニュースが流れていた。海沿いのこのあたりは高潮警報も発表されていた。
暗い窓の外を見つめるマックスの後ろ姿からは、哀愁が漂っていた。
それに比べて、タイフーンが過ぎ去った今朝は、雲ひとつない青空だった。雨風がすべてを洗い流してくれたのか、すっきりと気持ち良かった。
タイフーイッカ。
今朝みたいな空をニホンではそう言うらしい。彼の国贔屓の妹が、散歩に出かける僕たちを見送りに庭まで出てきた際に教えてくれた。
不思議な発音である。口を大きく動かすことなく口先だけで終えるのかと思いきや、「イッ」と溜め、「カッ」と吐く。このはっとさせられる感じが好ましく思い、家を出てからしきりに呟いている。
妹の言う「トートイ」や「オシ」などはいまいちわからないままだが、妹との距離が少し近づいたようで嬉しい。
海外に行っても大抵英語は伝わるし、わざわざ外国語を覚えようという気に僕はなれないが、妹は違う。ニホンのアニメにハマってから、マンガ、ドージンシ、オトゲー、……と様々なヌマにハマり、イラストを描き、コスプレをし、SNSツールを通じてニホンのオタク仲間をつくり、真夏に行われるフェスティバルや、オフカイなるもののために年に数回ニホンへ向かう。ニホンの文化を真に理解するためにはニホンゴを理解することが不可欠である、と考え、日常会話だけでなく、最近はコモンジョやクズシジなるものまで会得しようとしている。オタクスゴイ……。
妹が参加しているニホンのフェスティバルは真夏と真冬という、もはや純粋に楽しめるのか謎な時期に開催されるそうだ。その年末にあるフェスティバルにも参加するために年越しをニホンで迎えたいという彼女の願いは、年越しは家で家族とともに迎えるものだと両親に反対され、叶えられずじまいだ。僕としても大切な妹が目の届かないところにいるのは不安なので、可愛い妹の願いを叶えたい気持ちはやまやまだが、表明はしないものの両親の考えに賛成だ。しょんぼりしている妹を慰めるという名目で、思い切り甘やかして過ごす年末は、僕にとって一年で最大のフェスティバルである。至福の時間だ。
タイフーイッカ、タイフーイッカ、……ニホンではこのように何かを呟きながら歩いていると、馬やトノサマにぶつかったりするらしいのだが、アメリカ大陸西岸では、今回のタイフーンのよって流されてきたと思しき漂流物に躓くくらいだった。
片方だけの革靴(つまり、シューズではなく、シューなのだ)。
見慣れない文字の記されたライター。
壊れたビーチパラソル。
タイフーン明けの早朝だからか、いつもこの時期は人がごった返している海岸に、僕とマックス以外の人影はほとんどない(マックスを人にカウントしてよいかについては考えないこととする)。その代わり、浜辺にはいろいろなものが打ち上げられていた。
打ち寄せる波と照らす陽光は、形作っては模様を変え、水面を絶えず美しく彩っている。
造花と生花の違いの話がふと心に浮かんだ。時とともに形を変えるから生花は美しく、人々の心を惹くのだと。
そんな自然の織り成す奇跡の連続と、ところどころに散らばっている人工物。それらが不思議な調和を生み、僕の心を満たしていく。
透明度の高い水際を眺めながら歩いていると、波打ち際でキラリと光るものが目についた。波に寄せられ、引かれ、クルクルと踊るそれは、朝日を浴びてキラキラ輝いていた。
あれはなんだろう。
砂浜を歩くのは好きだが水は苦手な愛犬のリードが伸びるギリギリまで波打ち際に近づき、それを手に取る。どうやら瓶らしい。
三メートルほど先にいるマックスが、早く早くとでもいうようにリードを引っ張るので、波打ち際を離れ、道路とビーチを隔てるように並ぶヤシの木の下のベンチまで移動する。
波間に揺れていたのは、無色透明の瓶だった。
コルクで栓がされているが、そのコルクは緑色に変色している。中には、ビニール袋に入れられた紙束が見える。ボトルメールというのだったか。
手に力を込めて、開栓する。
キュポンッという音とともに広がる磯の匂い。
慎重に紙束を広げてみるも、残念ながらほとんど読むことはかなわなかった。英語で書かれたものではなかったのだ。一部読むことができたが、それも、 Solanum lycopersicum や TOMATO と書かれている箇所だけである。トマトについて書いてあるのだろうことしかわからない。
通常、自分宛てではないと思われるものは、元通りに直して元あった場所に戻しておいて正しい宛先に辿り着くよう祈るのだが、この手紙はひょっとして…………。
透明のその先の淡い青、濃い青のさらに向こうへと思いを馳せる。
――ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないじゃないか。
「マックス、そろそろ帰ろうか。お腹、空いてきただろう?」
思いがけない収穫物に、口笛を鳴らす。
この土産物の妹の顔が綻ぶのを想像しながら、帰途についた。
Fin.
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