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佳子は「だいじょうぶだと思う」と、「ありがとう」と答えた。
「着物のままはダメなの。仲居だってバレないように、浴室へ行くときが私服でね」
と、まおみは教えた。
長い渡り廊下を歩く、廊下の板は濡れている。
「きちんと拭かぬまま戻るお客さんがいるから」
とまおみは説明した。
床は濃い色の板で、その板に濡れた足の跡がついている。
足指まできっちり分かるから、面白かった。
まおみと佳子はタオルを前に掛けて、露天風呂に向かった。
夜になり、空気はひんやり冷たく澄んでいた。
ひしゃくでお湯をすくい、体に滑らせる。働いた汗は流れ落ちていく。
ゆっくりとヒノキの浴槽のなかに足を差し込んだ。
深い緑に濁ったお湯から硫黄臭がしている。
浴槽の淵はぬるぬるっとしている。
硫黄成分で潤っているのだろうか。
まおみの肌は薄暗いなかでもはっきりと白かった。硫黄の湯が滑った肌はてかてかと反射し、発光しているよう見えた。
その肌が、四十二度と表示されているお湯のなかで湯だっていく。
白い肌がほんのりピンクになっている。
温泉から出て、二人は濡れた髪のまま、寮に戻った。
スナックの濃いピンク色の看板がちらちらと光る。
周辺には羽虫が集まる。蛾を払いながら、階段を上がった。
また明日の朝はやくに、一緒に旅館へ出勤する約束をした。
「おやすみ」
とお互いの部屋へ帰った。
薄い壁一枚の向こう。まおみの生活音がする。
トイレに入って流した音、水を使う音。
昼間の蒸し暑さはどこへやら、草津の夜は寒いくらいだった。
その晩、スナックの客がカラオケを歌っていた。
伴奏の低音が、ずんずんと響いた。
まおみはよくこのなかで一年以上暮らしていられるな、と思った。
鳴れるものなのか、もともと神経が太いのか。
佳子は枕を顔の上に乗せ、音楽のイヤフォンを耳に挿して、どうにか眠れた。
それから、まおみと佳子は一緒に買出しに出たり、旅館のなかでまかない食を食べたり、仲を深めた。
一週間ほど経った頃、まおみの祖母が亡くなったと旅館に連絡が入った。
まおみはいまどき、スマートフォンどころか携帯電話を持っていなかった。
家族との連絡は旅館を介していた。
まおみは佳子を気にすることなく、慌てて支度をし、やはり、佳子など目に入らぬ様子で番頭さんの運転する車に乗り込んだ。
佳子が、駅から旅館まで乗ったあの車だった。
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