五百円玉と男二人

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 しかし、日本の夏は世界で一番不快であろう。ジメジメとした、まるで日本人の嫌なところを体現したかの如く陰湿な暑さ、老体には堪える。  今日も着ている服を汗塗れにして、空き缶を拾い、稼いだ金は四百九十八円、五百円にも満たない日銭もいいところだが、ホームレスの僕からしたら、これだけあれば充分である。  カップラーメンとわずかな酒、これさえあれば生きていける。僕は夜ご飯のことを考えながら、回収業者から公園までの帰路を歩いていた。  陽は完全に暮れ、月が朧げに輝いている。  フと周囲の視線を痛感した、最近は慣れたものだが、やはり、忙しなく夜街を行く人たちの、ゴミでも見るような紫電はときおり、僕の心を傷つける。  まぁ、ホームレスなんかをやっている僕が悪いんだ。  最近は空き缶の相場も下落気味で、値がふるわない、よって、僕の生活はただでさえ質素なのに、今では倹約に身を窶さなくてはならない。  銭湯もおちおち入ることはできない、必然的に僕の体は臭くなる。手は空き缶に残っていたジュースの残りカスで、ベトベトし、酷い臭気を放っていた。  自転車があればもっと効率良く空き缶を集められるのだが、いい自転車は中々落ちていない。  溜息が吐露する。  と、下を向いたのが幸いし、アスファルトの上に五百円玉をみつけた、内心が歓喜する。一瞬で一日分以上の利益を得た。これだけあれば、もっと旨いものが食べられる。  僕は勇足早く、五百円に近すぎ、拾い上げた。  さぁ、何を食べようか? 暑いから冷やし中華か? それとも、あえての熱々のハンバーグ、カツ丼もいいな。 「あの、すみません、その五百円玉は私のものなんです」  僕は手元の五百円から、視点を上げると、ビッシとしたスーツを着ている、生真面目そうな男がいた、如何にもなビジネスマンって感じの。  年齢は二十代後半だろうか、僕よりも十歳近く年下であろう。  僕は悩んだ、もし、拾った五百円玉が彼の物だったとしても、彼の身なりから勘案するに、彼はお金には困っていなさそうだ。  そんな彼が、ホームレスの僕に五百円玉を返せと言うのは、人道的に少しおかしい。いや、大いにおかしい、と僕は思う。 「すみません、だけど、僕、お金に困っていて、もし、良ければこの五百円、お譲りしていただけませんか?」  僕は言った、折角掴んだ幸運を、オメオメと手放す訳にはいかない、利己的かもしれないけど……  大人二人が五百円玉の取り合いか。 「ゔーん、でも、それ、私のなんで、返してください」  彼は淡々と言った。  なんと、慈悲のかけらも持ち合わせていないのか、彼は。  僕は少しだけ憤った、困った時は助け合い、違うのか? だが、現代人はエゴイストが多いと聞く、ここは、僕の身の上話でも聞かせて彼を説得しよう。 「ちょっと、昔話でもいいかな?」 「まぁ、ちょっとだけなら」 「昔、僕はね証券マンだったんだ、証券マンはね、基本的に人を手玉にとって金を稼いでいる。普通、お客さんは資産を増やすために商品を買うだろう? 僕ら証券マンはノルマをこなす為に商品を売るんだ、だから、お客さんが儲からなくとも良い、利害が一致していないんだ」 「はぁ……」  彼は溜息を吐くように頷いた。 「勿論、ノルマをこなす為に、お客さんの資産が減るような株や投資信託を売ったりもする、お客さんは知識が乏しいから僕らの言うことを信じて買ってくれるんだ。その行為は人道に反している、なんたって、人を騙しているんだから。でも、これは仕事だ、仕方ないと言い聞かせて、この仕事を続けていると、人はだんだんと病んでいくんだ。かくいう僕もその一人」 「まぁ……」  彼は僕の話がつまらないのか、萎んだように相槌を打つ。 「そんな中でも、僕は僕の仕事に意義があると思いやってきた、勿論、証券マンの仕事には意義があり、それが世界の発展につながってきた訳だけども、でもね、その発展には、お客さんの老後のためコツコツ貯めてきた貯金や、汗水稼いで得たボーナス、退職金などを犠牲にしているんだ」  彼は僕の話に飽きたのか、無言だった。 「それでも、僕は仕事に誇りをもって証券会社に勤めた。しかし、そんなある日、利回りの悪い、ゴミみたいな商品がノルマに課せられた。僕はその商品を、かなりボケているお婆さんに売りつけたんだ。その時は仕方なかった、ノルマを達する為には売らなくてはならなかった。でも、人を騙すなんて間違っていると思って、それで会社を辞めたんだ」  彼は天を穿つ矢印のような格好で棒立ちしている。 「それから、人間不信になってね、僕はホームレスなんかやってるんだけど……この五百円玉は君にとって七グラムしかないかもしれない、けどね、僕にとってこの五百円玉は象より重いんだ、頼む、譲ってくれないか?」  僕は頭を下げて願い出た、正直、証券マン時代の不幸話など話しても意味がないような気がした。 「すみません」  僕は彼の方を見ると、彼も僕と同じく頭を垂れていた。 「私、嘘をつきました、その五百円玉は私のではありません! ごめんなさい」  彼はうっすら目が潤んでいる。 「どうして、また、そんな嘘を?」 「私は数週間前にリストラされました、それも人員削減のためのリストラです、それで、そのことを妻にまだ言えず、再就職活動も難航していて……もう、金もそこを尽きかけていて」  彼は悲壮感に満ち溢れた顔つきで言った。 「そうなんだ」 「今日は妻の誕生日なんです。だから、ケーキやらプレゼントやらを買ってやりたいんですが、生憎、私に持ち金はなく、五百円あればコンビニで小さいケーキを買うこともできるのですが、それすら出来ず……丁度、そこに、あなたが五百円玉を拾ってる姿を目撃して、つい……」  彼は俯いて言った。  僕はそんな彼に同情した。贅沢のために金を得ようとする自分とは違う、彼は奥さんのことを思って……自分の淺ましい心に嫌気がさした。 「それなら、少ないけど、これももっていてよ、こんだけあれば、ケーキ屋でロールケーキくらいは買えるんじゃないかな?」  僕は彼の手に、今日の稼ぎの四百九十八円と五百円玉を握らせた。 「そんな、悪いです。ケーキは諦めますから、これは貰えません」 「人の気持ちを無下にするもんじゃないよ、いいから、貰っておきなさい」 「す、すみません、ありがとうございます」 「なんの、困った時は助け合いさ、就職活動、頑張るんだよ」 「は、はい」  かくして、僕は今日の食費を失った訳だが、そんなことはどうでもよかった。久しぶりに人のためになったような、そんな気がした。  彼は僕に別れを告げ何処かに行く、と、その時、彼のポケットから財布が落ちた。僕はすぐさま気づき、持ち上げると……ジャラ。  音がした。小銭の音だ。  僕は出かけた財布が落ちた旨を引っ込め、その場を離れた。  財布を確認すると、中には幾らかの小銭と万札が数枚入っている、おかしい、彼は所持金はゼロだといっていた。  僕は財布を漁ると名刺が出てきた。証券会社の名刺、免許証で確認したから、これは間違いなく彼の名刺だ。  僕はその名刺の裏を見た、上司の字だろうか、『騙すことに慣れろ!』そう書かれていた。  つまり、彼のリストラ云々の発言は嘘だったようだ。
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