拝啓、喜次郎様へ

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 拝啓、喜次郎様へ。  私からの突然の手紙に、困惑されている事でしょう。  だって、貴方様は茶屋の店主で、私はその客というだけなんですから。  そんな貴方様に、どうして私がこうしてお手紙をお出ししたのか。  …私は明日、婚礼致します。  相手は、名立たる華族の、長男様。  私の家と比べる事すら烏滸がましい、とてもとても…とても高い、雲の上にいる御方です。  それでいて決して偉ぶらず、心優しく、何よりも誰よりも、私を第一と…大切と考えて下さる方です。  私の家も、そして私も、彼との結婚を、とても喜ばしく思っています。  …だからこそ。  私の、心も体も、常盤に、永久に、あの人の物になる前に。  …貴方様に、どうしても告げたい事が…告げておかなければならない事が、あるのです。  …私は、  私は、  私は、貴方様を、愛しておりました。  心の底から、  心の奥の、そのまた奥底から、  貴方様を、愛していたのです。  …貴方様は、さぞ、困惑されておられる事でしょう。  ただの常連だった私が、奥様も、お子様もいる貴方様に、こんな想いを抱いているなんて。  …でも、私は、  貴方様の煎れてくれた緑茶を、  貴方様の出してくれた三色団子を、  貴方様の仕草が、一挙一動を、  貴方様の心の、温かさを、  貴方様の、全てを、  …私は、愛してたのです。  …それまでの私は、愛を知らぬ、家の為に動くだけの…絡繰人形と呼ばれるに相応しいものでした。  生まれた時から死ぬまでその繰り返し…その筈でした。  それが、私の在る理由だと、ずっとずっと、思っていたのです。  貴方様なのです。  貴方様が私を、絡繰人形から人間にして下さったのです。   その感謝は、やがて大好きに変わり、  その大好きは、やがて愛しているに変わって。  貴方様に奥様やお子様がいると分かってもなお、愛しているは止まらなくて。  気でも触れているのかと思う程、  身も、心も、炎獄の業火が焼き尽くしていると感じる程、  貴方様を、愛してしまって。  …でも私は、結局、その愛しているを伝えられなくて。  貴方様が困る顔を、見たくなかったから。  貴方様に拒絶される事が、貴方様に愛してもらえるより、余程怖かったから。  私がお慕いしていたのは、貴方様が楽しそうに、奥様や、お子様と話すその姿そのものだったから。  …今となっては、どうして伝えられなかったのか、その本当は、分からなくなってしまいましたが。  きっとその全てが、私に愛を伝える事を、ためらわせたのだと、今となっては思うのです。  …だから私は、婚礼の話が来た時、安堵したのです。  もう、貴方様への想いで、苦しまなくて良いのだと。  この身を焼く業火から、ようやく解放されるのだと。  私は、安堵したのです。    …貴方様が、好き。  貴方様が、大好き。  心の底から。  貴方様を、愛しています。  …心の底から。  私は、貴方様を、愛していたのです。  ありがとう。  貴方様を愛する事が出来て、  私は、とても、  とても、幸せでした。  次に私が貴方様に会う時は、  私が貴方様から授かった愛を、沢山捧げた夫と、  私が貴方様から授かった愛を、沢山注いだ子と一緒に、  貴方様に、会いに行きます。  さようなら。  どうか、お元気で。
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