私と、彼と、花言葉

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私と、彼と、花言葉

「ただいまー」    私は自宅であるアパートに帰ってきた。ところが、返事がない。携帯にも連絡は入っていなかったし、彼は今日もここに来ないのかもしれない。 「サクラが満開になったら、一緒にお花見しよう」    私がこの部屋に決めたとき、彼とそう約束したのに。  私の部屋は六畳一間で、ベッドや本棚など必要最低限の家具しか置いていない。それもあまり高さがないものばかり。本当は高さのある洋服ダンスを置きたかったが、引っ越しのときに彼が激しく否定したのだ。    でも、今では高さのない家具にして正解だったと思う。春になると部屋の唯一の窓である大窓からサクラが見える。それも手を伸ばしたら花びらに触れるぐらい近いところに咲く。事実、ベランダには特別に手を加えなくてもサクラの絨毯が完成される。  それに手許にこんな綺麗な花を飾ることができないし。  自分の腹ぐらいの高さの洋服ダンスの上には常に花瓶が置かれている。いつも花を買ってはそこに飾って、部屋に彩りを与えているのだ。最初は彼がこの部屋に来たときにしか飾っていなかったが、気づいたら自発的に飾るようになっていた。勿論今日も駅前で買ってきた花を飾る。  私は花瓶の中の古い水を捨てると、新しい花に巻いてある紙を取った。  今日の花はモモだ。三月から四月が旬で、名前の通り桃色の小さな花をつける。今はもう過ぎてしまったが、桃の節句、所謂雛祭りのときに飾る花としても有名だ。確か、花言葉は――「私はあなたの虜です」。  でも、最初に会ったとき、「虜」だったのは彼の方だったな、と私は思い出した。それはもう気持ち悪いぐらい目がハートだった。  私は花瓶に新しい水を入れてモモを挿したとき、まるで走馬灯のように彼との出来事が頭の中を流れた。  最初に彼と会ったときはただ同じ大学の学生というだけだった。とはいえ、出席している授業も所属しているサークルも違ったため、初めは互いに面識は全くなかった。大学というのは広いから、高校のときみたいに話したことがなくても何となく認識しているなんてことすらないのである。  そんな私たちの関係は突然始まった。  あれは何の授業の前だったか忘れたが、忙しくレポートを書いているときに突然声をかけられたのだ。いや、声をかけられたのは二つ目の行動で、最初は花を差し出されたんだったな。  細い茎のてっぺんに咲く黄と茶の二つの色を付けた花。花束にするには小さい花で、正直地味だと思った。普通花束を差し出すなら、バラとかもっと華のある花がテッパンじゃないのか。思い出す度にそんな面白くないダジャレをも同時に思い出してしまうのだが、そのときはあまりに突飛なことで、状況を把握するので精一杯だった。  しかし、唖然とする私に動じず言った。 「これはハルシャギクという花です。僕の気持ちです」  意味が分からない、と思った。それこそ、バラの花束なら私に好意を抱いているのねと感じることができるが、聞いたことも見たこともない花を渡されたところで、気持ちは微塵も伝わってこない。むしろ、そこにあるメッセージは花にしなければならないほど伝えづらいことなのかもしれないと警戒心さえ覚える。  でも一応、ありがとうと言って花束は受け取っておいた。初対面の相手に感じの悪い人というレッテルを貼られるのが嫌だったというのもあるが、何より彼の圧が強くて受け取らざるを得ない雰囲気だったのだ。そして、一度受け取ってしまえば、この圧からは逃れられるとも思った。  ところが、私の計算は大外れだった。彼がその日から毎日私のところに来るようになってしまったのだ。毎日授業を受けている講堂も昼食を食べている場所も違うのに、必ず居場所を突き止めるのだ。  そして、その手には必ず花束があった。それも毎日色も形も違う花である。それにしてもどうしてこんな名前も知らない花ばかりセレクトしてくるんだ。彼のセンスはよく分からない。  でも、不思議と迷惑だと感じることはなかった。むしろ私の許に来る彼が今日はいつどんな花を持ってくるのか、私の中でちょっと楽しみなイベントになりつつあったのである。  そして、転機は訪れた。  彼から花束を貰い続けて約一か月。夏がとうとう本番を迎えたころ。その日も彼は変わらず花束を持って私のところに現れた。青紫色の花である。 「今日で終わりにしようと思います」  珍しく彼が言葉を発した。彼はいつも花束を私に渡すだけでさっーといなくなってしまうのだ。 「終わりってどういうこと?」 「もう花束を渡しに来ないということです」  彼はそう言うと、頭を下げてそそくさとこの場を去ろうとした。  そのとき、あまりにも無責任だわ、と私は思った。あんなに意味不明な花束を毎日手渡ししに来たくせに。私は彼を引き留めずにはいられなかった。 「ちょっと待って!」 「はい……」  彼は困った顔で振り返る。 「今日で最後なら、どうして今日はこの花だったのか、理由を聞かせて」 「え?」 「毎日毎日頼んでもいない花をくれて、突然終わりって言われても納得できないわ」  すると、彼は少し考えてわかりましたと渋々返答した。 「その花はスカビオーサという花で、花言葉が『叶わぬ恋』なんです」 「叶わぬ恋?」 「最初にあなたに会ったとき、言ったでしょう。これが僕の気持ちだ、と」  ああ、あれは花のことを言っていたんだ、と私は一つ納得した。あの名前もわからない花たちを選んだ理由はそこに込められたメッセージだったんだ。  そう思ったとき、『叶わぬ恋』というメッセージを背負った青紫色の花を渡しに来た彼が急に愛おしくなった。 「ねえ、もしこれが『叶わぬ恋』じゃなかったらどうする?」  私は彼にそう言った。勿論彼は困り顔。 「これじゃない別の花をくれる?」  これが転機の言葉だった。好きですとも愛しているとも口にしていないのに、私たちはとうとう恋人関係に発展した。アタックし続けたのは彼なのに最終的に私が告白することになってしまったという少々不思議な展開になってしまったが。  お付き合いを始めて彼のことがいろいろ分かってきた。彼の名前は(けい)ということ、実家が花屋でいつもそこから花を調達してくること、そして彼は花が大好きだということ。  そんな彼は会う度に必ず花束をくれた。勿論今まで通り、毎回名前のわからない花ばかりであるが。 「花は口程に物を言うんだよ」  これが彼の口癖だった。花にはみんな花言葉があって、見て美しいだけではなくて手紙みたいに伝えたいことを伝えることができる。僕は君に伝えたいことがあるから花を送るんだ。  その理論は変だったけど、私はそんな真っ直ぐで少年のような彼が好きだった。  彼についてわかることもあったが、その一方で分からないこともあった。その一つはこんな素敵な人がどうして私を選んだのかということである。彼は勉強やスポーツもある程度器用に熟すし、性格も明るくて社交的で顔もそこそこ美形だ。それに比べて私は勉強もスポーツもそんなに得意ではないし、性格も明るいどころか人見知りだ。外見だって見惚れるほど美しくない。  だから私は何回目かのデートのときに訊いてみた。 「ねえ、圭。どうして私を好きになったの?」  我ながら恥ずかしい質問だったと思う。もう二度とこの台詞を言いたくない。  身を削って訊いた質問だったから、「優しいところを見た」とか「一生懸命な姿」なんていう嬉しい返答を期待していたが、どれも彼が言った正解からは程遠いものだった。 「名前だよ」  彼は平然とそう言った。意味が分からなかった。  私は咲良(さくら)という自分の名前が嫌いだ。毎年サクラが開花すると『咲良の季節がやってきたね』と言われ、その数日後すぐに花が散ると『まだ半年も経ってないのに咲良の今年は終わったね』と言われる。それに私はサクラのように美しい外見をしていない。顔もスタイルもみんな標準レベルだ。幼稚園に入ってからずっと自己紹介をし続けてきたが、いつも指を指され『名前負け』と笑われてきた。  彼はそんな私に「ねえ、咲良。サクラの花言葉って知ってる?」と訊いてきた。 「サクラの花言葉は『精神美』『純正』なんだ。どんな花をプレゼントしても喜んでくれる心の美しいである君にはぴったりで素敵な名前だよ。少なくとも僕が一目惚れしちゃうぐらいには」  聞いていてこちらが恥ずかしくなるような甘い言葉だったけど、正直予想していたどの返答よりも嬉しかった。  そして、彼と出会って初めての春に私は実家を出て一人暮らしを始めることになった。  勿論、彼には部屋探しの相談をした。幾つか候補は挙がっていたが、彼はたった一つの部屋をかなり推した。ここは咲良に住まわれるために存在している、とまで言って。  その部屋は六畳一間、備え付けの家具はないが、収納がやや広い古いアパートの二階。最寄り駅から徒歩一五分の場所でとても便利とは言い難い立地でもあった。  ところが彼にとってそんな条件はどうでも良かったらしい。そして彼がこの部屋を選んだたった一つの条件は他のどのそれよりも私に相応しかった。 「咲良の部屋なんだから、春にサクラが綺麗に見えるところにしないと」  確かに候補の部屋の中でサクラが見えるのはこの部屋だけだった。でもそのときは正直、サクラが見えるという理由だけなら他の部屋が良かったと思っていた。他のところの方が広いし、備え付けの家具もあって、家賃も安かった。おまけに最寄り駅からほんの数分の場所で立地も良かった。  でも、今となればここは最高の部屋だ。  私は夜の光が射す部屋を見てそう思った。満開のサクラが簾のようになって薄く光を遮り、夜風に揺れて数枚の花びらがベランダにひらひらと落ちる。日本中どこを探してもここで見るサクラより綺麗なものないと確信できる。  こうやって改めて見ると、私の部屋はすっかり彼色に染まっている。毎日違う種類の花を飾り、本棚には彼から貰った花の図鑑や花言葉の事典が何冊も並んでいる。  花にまつわることだけではない。ベッドに無造作に置かれた彼の毛布、食事のときの指定席のダイニングチェア。  まるでここが彼の第二の家かのようにどこもかしこも彼の面影ばかりだ。  そのとき、傾いた月の光がサクラの枝の間を縫ってローテーブルの上を照らした。  そこには見知らぬ花が置かれていた。ピンクっぽいヒガンバナによく似た花だ。でも、雄しべと雌しべがヒガンバナに比べて短い。それにヒガンバナの季節は秋だから、まだ出回らないはずだ。  私は取りやすいところにあった花言葉事典で、その花を引いてみることにした。でも名前がわからないから、索引からではなく速読のようにペラペラとページを見ながら探すというアナログな方法だ。見逃さないように必死だから、自然に眉間に力が入る。  目を凝らしてペラペラとページをめくりながら探していると、見知らぬ花に似た花のページに辿り着いた。実物と同じように写真の中のその花もピンク色をしている。  名前はネリネ。ヒガンバナ科とある。やっぱりその仲間だったか。  ふむふむ。ネリネというお洒落な名前はギリシャ神話に登場する妖精の名前からだと言われているのか。確かに妖精みたいに可憐な花だ。  私は彼のおかげで花の図鑑や事典の説明書きをよく読むようになった。読むと面白いことが書いてあるということもあるが、何より彼の知識において行かれたくなかったのだ。だから彼から花を貰う度、事典で調べては花の知識を蓄積していった。おかげで彼と花の話題について話すとき、だいぶ盛り上がるようになって、嬉しかった。  私は事典を読み進める。この事典にはページの下の方にその花言葉について書かれているときがある。偶然ネリネにも花言葉についての記述がしてあった。花言葉の由来なんかも書いてあって、ついつい読んでしまう部分である。  ところが、私はその花言葉を見て膝からがっくりと崩れ落ちた。    花言葉は――「またの機会に」。  それは別れの言葉だった。  今まで『愛』とか『美しい』とか私を賞賛するメッセージの花ばかりだったじゃない。名前が分からないものもが多かったけど、調べてみたら読んでいて恥ずかしくなるような花言葉ばかりだったじゃない。  最初は花について何も知らない私だったけど、色々調べてあなたとの話だって合うようになった。  いつもくれる花だって毎回喜んで貰ったわ。あなただって、そこが私の好きなところだって……。  それなのにどうして、突然。  最後に会ったときは楽しく花の話で盛り上がった。引っ越す前から楽しみにしていた、ここでのお花見についての話もした。そして、いつも通り『愛』の花言葉の花をプレゼントしてくれた。  全てがいつも通りだった。  私はネリネに至った原因を頭の中で必死に検索をかけたが、何一つヒットするものはなかった。  一体、何があったっていうの!  そう思ったとき、怒りと同時に涙がぽたぽたとフローリングの床に落ちた。彼の面影ばかりの部屋で泣くのは悔しかったが、涙が止まらなかった。  私は咲良という名前に見合わない美しくない人間だったんだ。美しかったら、彼はきっと見捨てなかったわ。  ――私はやっぱり名前負け。  私は同意を求めるように窓の外を見た。  そこには月の光に照らされた変わりない美しさのサクラが私を見下していた。そして嘲笑うようにひらひらと花びらを落とすのである。
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