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日暮れが近づくころ、曇った空を支える丘にきらりと一瞬、何かが光った。
前世紀の軍用車は荒野の真っただ中を走っている。視界はほぼ茶色の濃淡の中で、その異変はカナリアのセンサーに律儀に刻まれた。
「ダリル。人がいます」
隣で運転している男に、カナリアは声をかけた。しかし、彼は悪路を走る車のハンドル操作に必死になっていた。さらに激しい揺れと古い車体の軋む音に紛れ、少女の姿をしたマシンであるカナリアの細い声は、どうやらダリルにはまるで届いていなかった。
揺れの中の角度の定まらない視線で、カナリアはダリルを観察した。集中している時のくせで、ダリルは口を不機嫌な形に結び、眉間にしわを寄せているようだ。
明らかに手入れを怠っている髪を後ろでまとめ、彫りの深い顔にうっすらと不精髭。着古したコートは暗い色合いだが、それが元々の色なのかどうかは不明だ。
ダリルの横顔が振り向く気配もないので、カナリアはこの小さな報告を目的地に着いてから行うことにする。忘れたりしない。
カナリアはマシンだからだ。
ひと粒で のどスッキリ
カナリア・キャンディ
おひとつどうぞ
ありがとう
お礼に歌を ラララララー
カナリアが「カナリア」と呼ばれるようになったのは三年余り前からだ。
人工知能が一部暴走したために世界中で粛清されてから半世紀。加えて大規模な災害が相次ぎ、人口は激減し、おのずと文明は衰退している。今やマシンは珍しく、「旧テクノロジー」と呼ばれることもある。そんな中でマシンに精通する者もわずかにいる。拾い物の人工知能と、もらい物の少女型のボディを繋いでカナリアを作ったのはダリルだった。
昔のキャンディのマスコット・キャラクターだった、十二、三歳くらいの少女の姿。宣伝用に作られたデザインは黄色に近い金髪にコバルト・ブルーの瞳、アイボリーの肌で愛らしく、なかなかに目立つのだが、この件に関してダリルもカナリアも無頓着だった。
作られてから現在まで、カナリアはダリルの旅に同行している。
目的の街に到着したころには、太陽は分厚い雲と岩山の間に挟まって、なにもかもがオレンジ色に染まっていた。
「来る途中、北西の方角の丘の中腹から、誰かがレンズで私たちの車を監視していました」
「ふぅん、盗賊かな? こっちのルートにも現れるとなったら、いよいよマシンガンでも調達しないといかんかなぁ」
「マシンガンは持っているでしょう」
「スクラップ寸前だけどな。弾丸もない」
ダリルは肩を回して凝った筋肉をほぐしながら言った。
「銃を撃つ腕もないな。いつものルートに盗賊が出るっていうから、わざわざ荒野を抜けてきたのに、こっちも安全じゃないとなると死活問題だぞ」
二人はなじみの宿の脇で車を降りた。埃っぽい風がダリルのコートとカナリアのワンピースを揺らして過ぎていく。煉瓦で作られた背の低い町並みは黒いシルエットになりつつある。遠くに教会の尖塔が見えた。どこかで演奏している弦楽器の音色が聞こえてきて、通りには家路を急ぐ人影がいくらかあった。
窓の明かりがそろそろ目立ち始めるころだった。
「いつもの店で一杯やるかな。カナリア、おまえはどうする?」
「アンナに挨拶して部屋で待機しています。貴重品と着替えだけ持てばいいですね?」
「そうだな。じゃ、頼んだ」
「わかりました」
背中越しに手を振り、ダリルは酒を飲みに通りを歩いていく。長身のコート姿と長く伸びた影を見送り、カナリアは必要な荷物を提げて宿の扉を押し開け、中に入った。
入るとすぐに受付のカウンターがある。小さな宿の狭いロビーには誰もいなかった。小ぎれいに整えられた内装はほとんどが木製の年代物で、オレンジ色の明かりの中でひっそりと静止している。
カナリアはカウンターで呼び鈴を押した。
誰も来ない。
しばらく待つ。
もう一度押した。
奥から階段を下りてくる足音が聞こえた。カウンター内のドアが開き、シャツにパンツにエプロン姿の見知った少女が顔を出した。彼女はカナリアを見ると、軽く息を呑んだ。
十代後半の痩せた黒髪の少女は、いつものような笑顔を見せてはくれなかった。思いつめたような硬い表情で、顔色もすぐれない。
「ミーナ、こんばんは。アンナに会えたら、挨拶したいのですが」
「ああ……来てくれてよかった。おばぁちゃんは調子悪いの」
ミーナはカウンターから進み出てきてカナリアの空いている手を引き寄せ、肩に手をかけた。
「そうですか。それなら挨拶はのちほどにします」
「いいから、来て。おばぁちゃんはあんたに会いたがってる」
ミーナはカナリアをカウンターの奥へ招き入れた。いったん預かると言ってカナリアの荷物を受け取り、クロークに仕舞う。
「ダリルは?」
「いつもの店に行きました」
「相変わらずね。でも、あんたがいれば問題ないわ」
階段を上り、廊下を進んで突き当りの部屋に案内される。何度も泊まった宿だが、こういった住居のスペースに入るのは初めてだ。
「父さん、カナリアが来た」
室内には男が二人と女が一人、ベッドの脇と裾を囲んでいた。
壁に寄りかかっていた太めの男が姿勢を正し、ベッドの枕元を指し示した。
「よく来た、カナリア。こっちへ」
「テオ。こんなところにまで入ってきてよかったのですか?」
「あんたは母さんのお気に入りだからな。顔を見せてやってくれ。ドクター、ミス・ジョーディ、ちょっと場所を譲ってほしい」
呼ばれたのは医師と看護師だったようで、カナリアとミーナのためにベッドの脇から離れてくれた。
ベッドの上の老婆は目を閉じていたが、ミーナが声をかけるとゆっくりと瞼を持ち上げて、灰色の瞳でカナリアを見た。
「あら。これは夢の続きかしら……」
聞き取りにくいおぼろげな声で彼女は言った。
「アンナ。お久しぶりです」
「おかえり。元気そうね、カナリア」
「はい。異常ありません」
「待っていたわ……手を取ってくれる?」
アンナは寝具の間から手を出すのも難しいようだ。カナリアは横から手を差し入れて、探り当てたアンナの手を握った。返ってくる力の弱さに合わせて、壊れ物のようにそっと両手で触れる。
「ありがとう、これでよく眠れそう……」
「わたしも、会えてよかったです」
アンナはほんのり微笑み、そのまま目を閉じた。
「アンナ?」
小さな寝息を確認して、カナリアは室内の人々に報告する。
「眠っています」
みんなが一斉にため息をついた。
それからカナリアはアンナの部屋を出て、ミーナに案内された客室で過ごした。ダリルは来なかった。たまにあることだったので、じっと椅子に腰かけて一人で静かに待機する。
カナリアは病床にある人を見舞ったことがなかった。だから、先ほどのアンナの部屋での出来事を整理して記憶する。
この街の医師と看護師を見たのは初めてだった。
アンナはこれまでになく弱々しかった。
彼女はカナリアに、「おかえり」と言った。
その表現は間違っていない。カナリアのボディはアンナの所有物だったのだ。
大昔に誰かから譲り受けて、大切に倉庫に仕舞われていたそれは、元は「カナリア・キャンディ」の宣伝用で、イベント会場などに貸し出されては、簡単な歌とダンスを披露するだけの人形に過ぎなかったという。
歌とダンス。
現在のカナリアには縁遠いものだった。
アンナが教えてくれようとしたのだが、それがなんのためのものなのか、カナリアには理解できなかった。
それでもアンナはカナリアが来るたびに喜んで、ダリルが仕事で出かけている間、いろんな話をしてくれた。
アンナと過ごした時間の記憶をひとつ、カナリアは意識下に再生した。
「あなたを見ていると昔のことを思い出すわ」
楽しそうにアンナは言っていた。
「思い出すとは、どのような感覚なのですか?」
「忘れていたことが心の中に甦ってくるのよ」
「記憶が消失しているのですね」
「ちょっと違うわねぇ」
アンナは生真面目なカナリアの言葉が可笑しくて仕方ないようだった。
「思い出すのはいいことなのですか?」
「そうね。こんなに年をとるとね、楽しかったこともつらかったことも、愛おしく思えるものなのよ。みんながそうとは限らないけれど」
灰色の瞳でのぞきこむように視線を合わせ、アンナはこう尋ねた。
「あなたはなにもかも忘れずにいられるのね?」
「はい。わたしの記憶はすべて鮮明です」
「すばらしいわ。でもね、ヒトはたくさんのことを忘れていくの」
「どうしてですか?」
「生きていくためよ。忘れることは救いでもあるの」
「忘れることはいいことなのですか?」
「そうね。わたしたちはみんな、抱えきれないことや、覚えていても仕方のない、つまらないことは忘れてしまうようになっているの。心のバランスを保つためにね」
「思い出すのも、忘れるのも、いいことなのですね」
「あら、本当ね。矛盾しているかしら」
アンナは首をかしげた。
「わたしにはよくわかりません。でも、こんなことを教えてくれたのはアンナだけです。きちんと記憶しておきます」
カナリアがそう言うと、アンナは微笑んで、カナリアの頭部に軽く二度、手を置いた。
そのとき二人は宿の裏手にあるラウンジのテラス席で話していた。テーブルの上にアンナのための紅茶があり、午前中の柔らかな日差しが、植込みのつる草の影を落とし、それを時折吹く風がきらきらと揺らした。鳥の声がなにかを伝え合っていて、よそから遊びに来た猫が足元に眠っていた。
カナリアの記憶はすべて鮮明だ。
翌朝、アンナが息を引き取ったことを知らされた。
ミーナが黒い服を着せてくれた。
「あたしのお下がりだけど、あんたにあげるわ。ほかにも気に入るものがあれば、持って行って」
同じような黒のワンピース姿に着替え、ミーナは言った。
「わたしは服のことはよくわからないです。旅の荷物は少ない方がいいですし」
「マシンってつまらないわね。あとで三着くらい選んで持たせてあげる」
ミーナの父のテオが黒服に黒いハットを目深にかぶり、二人を待っていた。
カナリアたち以外の泊まり客がチェックアウトして、時間はすでに午後になっている。
「ダリル、来なかったのね」
「はい」
「まぁ、葬儀には来るでしょ」
黒い服の人々が棺を荷車に乗せ、曇天を突くように佇む教会へ引いていった。
葬儀が行われた。
牧師が古い本から神の言葉を読み上げ、集まった人は白い花をそれぞれ棺の中へ入れていった。アンナは眠ったまま動かない。彼女は神の国へ行ったのだと教わった。これは別れの儀式だという。
みんなに混ざってカナリアが花を入れたころ、ダリルの姿が見えた。やはり黒い服だったが、長身なのですぐに目につく。その後ろに女性が一人いたが、するりとダリルから離れると、ほかの人々に紛れてしまう。
そうして遅れてきた人たちもすっかり花を入れると、棺の蓋が閉められ、墓地へ運ばれていく。
日差しは相変わらず乏しかった。木立の緑は暗く沈んだ色合いだ。教会から続く土の小道を黒の行列がたどっていく。
歩く間にダリルが近づいてきた。
「こんなことなら、ゆうべ飲みに行かなきゃよかった」
ダリルはいくらか肩を落とし、ぽつりと言った。
「あなたはいつものように行動しただけです」
カナリアが言うと、ダリルは首を振った。
「悔やんでも遅いな。カナリア、おまえはアンナと話せたか?」
「はい。昨夜会わせてもらえました」
「それならよかった」
不慣れなネクタイが気になるらしく、ダリルは首元をいじりながら、ふとどこかに視線を留めた。その方向には知らない若い男が、木陰からこちらを窺っていた。その男は黒服ではなく、灰色の上着とハンチング帽といういでたちだった。葬列に加わらないところを見ると、街の人間ではなさそうだ。
カナリアが目を向けると、さっと木に隠れた。
「知っている人ですか?」
「ちょっとな」
ダリルは苦々しげにうなずいた。
よい関係の人物ではないらしい。ハンチング帽の男は距離を置き、木立の合間に見え隠れしながら墓地までついてきた。
いよいよ棺が土に埋められ、最後の別れが済み、テオが参列者に感謝の言葉を述べると、黒服の人々は目礼して散り散りに帰って行った。
「ついでに知り合いの墓に挨拶してくる」
ダリルはようやくとばかりにネクタイを緩めながら言った。
「同行します」
「いや。おまえはミーナのそばにいてやったほうがいい。おれはこのあと服を返しに行って、この街の仕事を済ませてくる」
ずいぶん予定が詰まっているような口調だった。
「いつものように何日か滞在するのではないですか?」
「そうしたいけどな。しばらくテオも宿どころじゃないだろ」
そのとおりで、テオは宿を何日か休みにすると言っていた。
旅をしていると予定が変わることもしばしばだ。
カナリアはダリルと別れ、ミーナとテオに合流して宿へ戻った。
ミーナのそばにいてやれとダリルは言ったが、それでどうなるものか、よくわからない。
しかしほかにできることもないので、カナリアはミーナといっしょにいつもの服に着替えて、その後ミーナがクローゼットから服をいろいろと取り出し始めてもそばにいた。
「オレンジ色だと、金髪に合わないわね」
「そうですか?」
まるでわからない話題なので、カナリアは同意も反論もできない。ただ従うのみだ。
カナリアのセンスはあてにならないと判断したらしく、ミーナは自分好みの服を十着並べた。床に広がる色彩とカナリアの黄色っぽい金髪と青い瞳と象牙色の肌を見比べ、候補を絞っていく。色味の合わないものを外して七着に。いまでは古臭くなったデザインを外して五着にまで絞る。
「着てみてくれる?」
もちろん言うなりだ。カナリアは五着の服を順番に着ては脱いで、を繰り返した。
腕組みして見ていたミーナは、まるで人生の命題に立ち向かっているかのような面持ちだった。
カナリアが着るのにもたついていた、ボタンの留めにくい服を外す。
「あんたは見た目が派手だから、やっぱりシンプルなのが映えるわね」
それで大きな花柄のものを外して、残った三着のワンピースと、さっき脱いだ黒いワンピースを手際よく畳んで紙袋に入れた。
「これはお客さん用だったんだけど、何年もそのままになってるから」
と、開封されないまま包装が傷んでしまった下着や靴下なども入れてくれる。
「どうぞ。たまには着替えてね」
「わかりました」
カナリアは受け取って、きちんとお辞儀をした。
「忘れないように車に積んでおこうかしら。あんたはキーを持ってるの?」
「はい。スペアキーならあります」
ダリルは街の中ではほとんど徒歩で移動していた。軍用車はそのまま宿の脇に停めてある。
それで二人は車まで紙袋を運んだ。埃にまみれた武骨な車体はところどころ錆びついて、カナリアの膝よりも高さのあるタイヤ周りには、跳ねた泥がこびりついている。
「これがまだ動いているなんて、不思議でならないわ」
ミーナは力のこもった口調で言った。
「ありがとうございます」
「えっ」
お礼の言葉にミーナは目をみはった。
「やだ、そういう意味じゃなかったんだけど……」
それからうつむいて、両手で顔を覆った。徐々に肩先が揺れ始める。
いままでにない反応なので、カナリアはどう対処するべきか思いつかず、ただミーナを見つめていた。
「ミーナ。どこか痛みますか?」
声をかけると、ミーナはなにも言わず、くっくっく、という小さな音を発した。
やがて徐々にこらえきれなくなったようだ。
「うふっ、もう、おっかしい……」
ミーナはふふっ、と声を出し、肩を揺らし、目尻を指で拭った。
「ああ、おなか痛い」
「腹痛ですか?」
「ちょっ、違うってば、やめてよカナリア、ははっ」
真面目に聞いたのだが、ミーナはさらに笑いのスイッチが入ったようだった。
カナリアはわけがわからず、笑い続けるミーナのかたわらに佇んでいた。
ヒトの心の機微は、カナリアにとってまだまだ大部分が謎だった。
はぁ、と息をつき、ミーナはやっと笑い終わる。
「ダリルに言われたんでしょ、あたしのところにいろって」
「はい、そうです」
「やっぱりね」
ミーナはしばらくあごに指をあてて考えているようだった。
やがて、ぽんと手を打つ。
「じゃ、掃除でも手伝って。葬儀の支度で手付かずだったし。今日は手伝いの人たちもいないし。父さんはまだつきあいで帰ってこないから」
それで、カナリアは客室の掃除につきあうことになった。
夕方になると、ミーナはカナリアをテラスに誘った。
自分用に作ったサンドウィッチとスープと、炭酸水のボトルをトレーに載せてきたミーナは、椅子に掛けてカナリアと向き合う。
「ちょっと食べるわね」
「はい」
「……あんまりじっと見ないでもらえる?」
「わかりました」
カナリアはテラスの外に目を向けた。小さな庭と、車を置いてあるスペースがわずかに見える程度で、あとは並んだ建物の壁がある。ささやかながら、表通りからの人目を避けてくつろげるようになっていた。
高い建物がないので、視線を少し上げればすぐに空が見えた。
葬儀の時の分厚い雲はいつの間にかどこかへ行って、日差しは金色からオレンジ色に変わる途中だった。
ここでよくアンナと話をした。
アンナはいない。彼女との記憶はもう更新されない。
最後に見た棺の中のアンナは、白い花に囲まれて微笑んでいた。
カナリアはその映像をいつでもはっきり再生できる。
なのに、アンナはどこにもいない。
カナリアはその事実になすすべもなかった。椅子に腰かけたまま、庭を眺めて、静止するほかなった。
ふんわりと風がつる草を揺らした。
「……寂しいね、カナリア」
ミーナが言って、そちらを見ると彼女は食事を終えて、炭酸水をボトルのまま傾けて飲んでいた。息をつくと、視線を落とす。
「夕方にテラスで黙ってたらダメね。失敗だったわ」
「なにかお話しますか?」
「なにを?」
「過去の記憶についてのお話なら、できます」
「じゃ、あんたが知ってるいちばん昔の話をしてみて」
「それはわたしがこの体になる前のことになります」
「聞かせてくれる?」
「わかりました」
それは半世紀以上前の記憶だ。でも話すことに支障はない。
必要なら、なにもかも現在のことのように語れるのだから。
そのころ、世界にはたくさんの人工知能がいた。
カナリアはその中のほんのひとつ。
「わたしはCIACM-9という名前でした」
「えっ。名前? それ」
「そうです。でもまわりのヒトたちはわたしを『ナイン』と呼んでいました」
「どんなヒトたちといたの」
「鉱山技師たちです。わたしは鉱山の坑道でセンサーを読み取って、異常を知らせる役割でした」
「異常ってどんな?」
「有毒ガスとか、鉄砲水とか、岩盤などの崩落の予兆などです。わたしはそのためのセンサーを何種類も搭載した、ほぼ箱形のマシンでした」
カナリアは「ナイン」だったころの記憶を再生しながら、ミーナのために説明していく。
「なので、当時のわたしにとって世界はほとんど坑道の中でした。土に囲まれて、ライトの届かないところは暗闇でした。まわりのヒトたちは岩盤を削る機械と、採取した鉱物を地上へ送る機械を動かして、時間ごとに交代していました」
そんな毎日が数年続き、あるとき「ナイン」はある異変を検知して、現場の責任者に報告した。
「それはわたしのデータに登録されていないガスでした。とても微量ですが、人体にどんな影響があるものかわかりません。地上の研究機関にサンプルを提出して、詳しく調べたほうがいいと伝えました」
現場の責任者はその報告を受け入れた。
ガスを採取し、「ナイン」が分析した組成データとともに地上へ送った。
「それで解析結果を待っていたのです」
「時間がかかるものなの?」
「そのようですね。地上でどんなやりとりがあったのか、わたしには知らされませんでした。ただその間にも技師たちは変わらず仕事をしていました」
「じゃ、毒ガスとかじゃなかったってことかしら」
「いいえ」
カナリアは首を振った。
いくらか不穏な気配を察したのか、ミーナは眉をひそめた。
「結果を言えば、毒ガスだったのです。ただ、すぐにヒトの健康を害するものではありませんでした。だから現場では問題にされなかったのです」
最初は誰もその異変に気づかなかった。
「すでに危険は迫っていました」
坑道で働くヒトたちは変わらず順調に仕事していた。
「技師たちはみんな元気でした。ただ、元気すぎました。転倒して骨折しても楽しそうに笑っていました。頑丈なヒトたちでしたが、それにはわたしも異常と判断して、責任者に忠告しました」
ただ、もうそれは誰にも届かなくなっていた。
「責任者も楽しそうなままでした。みんな仕事が大好きになっていて、交代して地上へ帰るのが嫌だと言って、それで揉め事になるくらいでした。そんなときに、地震が起こりました。わたしは初期のわずかな振動を感知して、一刻も早く地上へ避難するよう警告を出しました。すぐに逃げれば間に合うはずでした」
それでも地下の坑道の中で、技師たちは明るく笑っていた。
「わたしの言葉を、誰も聞いていませんでした。彼らは未知のガスに侵されて、ある種の中毒になっていました。坑道にいると、ガスのお陰でなにもかも楽しくて幸せだったようです。地震が起きても誰も仕事をやめようとしませんでした」
鮮明な記憶のままに、カナリアは言葉を紡いでいく。
そしてその終わりはいつでも無造作に途切れてしまう。
「大きな揺れで、岩盤が崩れ落ちてきました。ライトが消えて真っ暗になっても誰かが笑っていました。わたしは土と岩に覆われて、そのまま電源が切れるまで静かに埋まっていました」
そのあとのことはわからない。
「いちばん昔の話はここまでです」
話が終わると、ミーナは目を閉じてため息をついた。
「悲しいお話ね」
「わかりません。みんなは楽しそうでした」
「なら、あたしがあんたの代わりに悲しんであげる」
ミーナは残った炭酸水を飲んでしまって、ボトルを置くと、テーブルを回り込んでカナリアの肩先を後ろから抱きしめた。
「ミーナ」
「このままで聞いてくれる?」
すぐ近くで声がする。
カナリアはうなずいた。
「あたしもね、大丈夫って思ってた」
ミーナは小さな声を震わせて言った。
「おばぁちゃんのこと、あたしはすぐ治ると思ってた。だってずっと元気だったし」
葬儀の間も含め、ミーナがアンナの話題に直接触れたのは初めてだった。
「いつか別れるときが来るってわかってたけど、いまじゃないって。もっとずっと先だって。きっとすぐによくなって、元の毎日が変わらず続くと思ってたの」
カナリアは黙って聞いていた。
「ヒトってばかね。いつかこんな日が来るってわかってたのに。いつまでも同じ明日が来ると思ってしまうの。それで今日まで過ごしちゃった」
少しずつ色づく夕日の中で、カナリアは肩に回ったミーナの手に自分の手を重ねた。
「あなたと鉱山技師たちとは違います。彼らは正常ではなかったから、危険を認識できなかった」
「……うん」
「あなたは、アンナに生きていてほしかったのでしょう」
うなずく動きが後ろから伝わってきた。
「わたしもです」
マシンであっても、それはカナリアもミーナと同じだった。カナリアは、もっとミーナになにか伝えたかった。
言葉を探していると、夕空を渡る風に乗って、弦楽器の音色が聞こえてきた。
それは、アンナに教わったことがある旋律だった。
翌朝、ダリルとカナリアは次の街へと出発した。
ダリルは昨夜、仕事を終えてようやく宿に来ると、しばらくテオと飲んでいた。
そのせいか、いつにも増してくたびれて見えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
短い返答だった。余計な会話をしたくないときは、いつもこんな感じなので、カナリアはそれ以上聞くのはやめておいた。
「おまえ、昨日、歌ってたな」
ダリルは車の運転をしながら、短い言葉を並べる。
「よく知っていますね。ミーナに聞いたんですか?」
「通りかかった」
あのとき、届いた旋律に合わせて、カナリアは歌った。アンナに教わったいくつかの歌のひとつだった。記憶と照合して旋律をなぞり声を発するのは、難しいことではない。
「歌は嫌いじゃなかったか?」
「いいえ」
車はまだ街の中を走っている。
「ただ、わからなかったのです。言葉を旋律に乗せる必要があるのか。でも、あのとき、言葉が見つかりませんでした」
「そうか。いい歌だった」
ダリルはそう言ったが、カナリアには歌の良し悪しがわからない。
「今回は慌ただしかったな。次に来たときはゆっくりしよう」
「はい」
アンナはいないが、ミーナにはまた会える。
ミーナとの記憶は増やせる。それはカナリアにとっては朝日がきらきら輝いているような感覚だった。
「あいつ、またいる」
ダリルが言った。
町のはずれのあたりで、墓地で見かけたハンチング帽の男がいた。
「手を振っていますね。仲良くなったんですか?」
「まさか。盗賊よりタチの悪いやつさ」
そう言うと、ダリルは車の速度を上げた。
ハンチング帽の男の前を、あっという間に駆け抜けた。舞い上がった埃に巻かれて、その男はのけぞってバランスを崩しそうになっていた。
エンジン音と車体の軋みで、またもや車内は会話不能になってしまう。
ハンチング帽の男が何者で、どうタチが悪いのか。
それをダリルに聞けるのはまだ先のようだ。
カナリアは見送ってくれたミーナとテオの姿を再生した。
「また来てね。あたしはいつもここにいるから」
その記憶を大切に保存して、道の先を見ると、雲の切れ間からこぼれ落ちた日差しが、草地のところどころに明るい模様をつけていた。
車内の騒音の中で、カナリアは旋律を紡いでみる。誰にも聞こえない歌を。
そうして、カナリアは歌を手に入れた。
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