<1・振り向けばそこには>

1/4
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/129ページ

<1・振り向けばそこには>

 完全に馬鹿をやった、と招来(しょうらい)学園二年の鵜飼花苗(うかいかなえ)は思った。  全国高校、吹奏楽コンクール。うちの学校も他校同様、全国大会に向けて猛特訓を開始したばかりだ。それでも音楽室を開けておける時間には限りがあるため、それ以上に練習したい生徒は楽器と楽譜を持ち帰って自宅で個人練習をするしかないのである。花苗もその一人。今年こそは県大会を突破するぞ、と息巻いて意気揚々とトランペットを自宅に持ち帰ったのだが。  あろうことか、楽器だけ持って、肝心の楽譜を忘れてしまうという体たらく。これで一体どうやって練習しようというのだろう。 ――まったくもって意味ないよー!暗譜してるわけじゃないし、注意事項だって書き込みまくってるっていうのにさあ!  夜の学校に忘れ物を取りに行く、なんて完全にフラグでしかないと知っている。それでも行かないわけにはいかなかった。今日は金曜日。このまま楽譜がなければ、土日は一切練習できないで終わってしまう。本来なら土曜日も日曜日も部活動があるはずだったのだが、残念ながら顧問の先生の都合でこの土日は部活がお休みになってしまったのだ。  部活というものの仕組みは面倒くさい。顧問の先生がいない=保護者代わりの人間がいないと、音楽室を開けてもらうこともできないのである。  結果、花苗は渋々此処にいる。とっくに日が落ちて暗くなった、学校の正面に。 ――うう、入りたくない。入りたくないよお……!  十七歳にもなって、泣き言なんぞ言っている場合ではないと知っているが。とにかく、花苗は怖がりだった。子供の頃から、それこそ児童向けのお化け映画やアニメさえも見られないほどの怖がりなのである。デフォルメされていてもダメ。頭の中で勝手に“リアルなお化け”に変換してしまい、結局自分で自分の首を絞める羽目になるのである。  足が震える。行きたくない、とばくばく煩い心臓が叫んでいる。しかし、今は吹奏楽部員としての“練習しなければいけない”という使命感が、僅かに恐怖を上回っている状態だった。特に、今年は後輩に上手い子が入って焦っているのだ。トランペットという楽器はメジャーである分、入って来る子に経験者が少なくない。中には小学校の頃から金管バンドに所属していたという子も多く存在している。元より高校から始めた花苗は出遅れている状態なのだ。人一倍練習しなければ、皆の足を引っ張ることは明白である。  ただでさえ――そう、ただでさえ。花の“ファーストトランペット”を、半ば同情心で譲って貰った経緯があるのだ(同じ楽器のパートは、それぞれファースト~サードorフォースまででパート分けされている。ファーストほど音が高く、メロディーラインを任されることが多いのだ)。  いつまでもハイCが出せないままです、なんて泣き言を言える立場ではない。それこそあまりにも酷い状態なら、後輩にファーストを譲れと先生に指示されてしまうであろうことも想像に難くない。それだけは、プライドに賭けても絶対にごめんなのだった。 「い、行くぞ!」  あえて気合を入れようと呟いた声は、みっともなく震えていた。  唯一の救いは、職員室にはまだ電気がついていたということである。当然、職員玄関は開いている。先生達は、九時を過ぎてもまだ残業(教師に残業という概念はないのかもしれないが)を頑張ってくれているようだった。頭の下がる話である。職員室で鍵を借りたらそこからは一人で頑張らなければいけないが、それでも学校に先生達がいると思うだけで少しは心強かった。
/129ページ

最初のコメントを投稿しよう!