故郷の秋空

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故郷の秋空

 秋の風に誘われて、ぼくは久々にこの地を訪れた。  しばらく訪れないうちに街の様子はずいぶんと変わっていた。  この街の象徴だったR型の櫓は跡形もなく消え去り、日用雑貨を求める人々でごった返していた商店街は閑古鳥が鳴いている。さらには山際に掘られた多くのトンネルもコンクリートや鉄格子で塞がれ、かすかに残った施設や促進住宅も草木に覆われ、人が手入れしている様子は全くなかった。  あの年の秋……今はもう遠い日。ぼくはこの故郷で父を失った。それはまだ、この地が炭鉱で栄え、「眠らない街」と呼ばれていた頃の話。  いつも父は朝早くに出かけて行き、日が沈むと顔を真っ黒にして帰ってきた。  ぼくはいつも早起きをして、仕事に出かける父を笑顔で見送っていた。しかし、夜になって真っ黒な顔をして帰ってきた姿を見ると、その度に、「鬼だ、鬼が来た」といって泣いていた。当時まだ5歳だったぼくには、朝出て行った薄橙色の肌をした父と、真っ黒な皮膚をした鬼が同じ人には思えなかったのだ。  それでも父は朝になると、ぼくの頭を優しくなでては仕事に行っていた。  ある日、夕方になっても鬼は現れなかった。代わりに家の黒電話が激しく鳴り響く。母が受話器を取って受け答えをしていたのだけど、だんだんとその表情が青ざめていき、そして遂には受話器が母の手から滑り落ちていった。母は電話が繋がっているのにも関わらず、強くぼくを抱きしめ、そして泣いていたのだ。  それから何日か、スーツを着た人たちが家を訪ねて来ては母と何やら話をしていた。 「まことに申し訳ございませんが、生存の可能性は……ないと思います」  玄関の方からそんな言葉が聞こえてきた。今から思えばものすごく残酷な言葉だ。でも、幼心にそんな言葉の意味がわかるはずもなく、ぼくは居間で一人お絵かきをしていた。  鬼が……父が帰らなくなってから、ちょうど1週間が経った日の正午、山の向こう、R型の櫓の方から低いサイレンの音が鳴り響いた。  母はその音を聞いて、ぼくに「手を合わせなさい」と言う。  ぼくはよくわからなかったけど、とりあえず手を合わせた。 「お母さん、お父さんはいつ戻ってくるん?」  ぼくは母に尋ねた。でも、母は決して答えることはなかった。  紅葉が始まった山々と朱色の櫓、そして、秋晴れの空に昇っていく漆黒の煙――今は戻らない遠いあの日、ぼくの記憶に鮮明に刻まれたあの景色。  時代と共に移り行く景色の中で、あのときの記憶が消えることはないだろう。これからも、ぼくはそれを背負って生きていくのだ。                            (終わり)
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