2.課長と隣人とネコ砂

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2.課長と隣人とネコ砂

 昨日はネコの日だったので、会社を休んだ。(オレは月に一日ネコになってしまう日があり、当然、その日は人間として社会生活はできない。詳細は昨日の日記をご確認ください)  欠勤の結果、今日、オレは地獄を見た。正確には、まだ死んでいないので本物のあの世の地獄ではなく、この世の生き地獄を見た。オレが直面した生き地獄は世間一般では主に、勤務先と呼ばれ、そこの獄卒は鬼ではなく、課長だ。 「おまえは昨日一日休んだんだ、今日は三日分働け」  課長の脳内の計算がまったくわからない。なぜ一日休んだのに、昨日・今日の二日分ではなく、三日分?  だが、社畜のオレには「課長の超論理が理解できません」などと率直な感想を述べる権利はなく、「御意!」と大声で元気よく答えるのみだった。自席のPC内にはタスクとメールが画面5スクロール分くらい溜まっていた。  そして気づく。同じ島の後輩・豊島の姿がない。もう定時は過ぎているのに。まさか。 「もしかして豊島か?」  同期の板橋が小声で訊いてきたので、わずかにうなずいてみせると、 「あいつは退職届という名の遺書を残してここから旅立ちました」  という情報をくれた。ええと、今年何人目だっけ?  あ、だからか! だから三日分なのか! つまり、オレの分の欠勤一日と今日の分と豊島の今日の分。三日分働けとはそういうことか。  やっと理解できましたよ、ボス! 思わず課長の方を見ると、課長は「なぜ今朝のお茶には茶柱がないのか」と自分でいれたお茶について、新人の渋谷を怒鳴りつけているところだった。  いや、うん、違うな、オレの推理は間違ってるな。課長の超論理は論理を超越しているから、超論理なのだ。たまにネコになる以外、平凡なスペックしかないオレごとき凡人が、超論理を理解しようなんて、とんでもない思い上がりだった。ご下命かしこまり、社畜は社畜らしく、働きます……。  生き地獄で命を鰹節のように削ってあがいた結果、なんとか終電に乗ることができた。はああ、人間てツラい。ネコにはネコの苦労があるけど……。そこまで考えて、「やべえ、ネコ砂が切れていた!」と思い出す。ペット禁止のアパートだが、我が家にはネコ砂とネコエサが欠かせない。もちろん、ペット用じゃない。自分用だ。  幸い、終電に乗れたから近所の大型スーパーがまだ開いていて、無事ネコ砂をゲットできた。本当は通販で買いたいが、社畜ゆえに日中及び夕方はアパートにいないため配達を受け取ることができないので(休日はもちろん不定期で日付が読めない)、自分で買うしかない。疲労の溜まった体で三キロのネコ砂を抱え、よろよろと家路をたどる。 「よいしょっと」  アパートの階段をのぼり、ドアの前で鍵を取り出そうとした時、 「こんばんは、いまお帰りですか?」  唐突に隣室のドアが開いた。え、隣は空き部屋だったはずだけど。  同年代くらいの女子がドアを半開きにして、にこにこしている。 「お待ちしてたんです! わたし、目黒といいます、今日お隣に引っ越してきました」 「あ、ああ、どうも」  隣人とはいえ、こっちは初対面の野郎なのだ、なんだか妙に距離感が近いひとだな。こんな夜更けに不用心じゃないのか? 「これをどうしてもお渡ししたくて。ご挨拶です、どうぞ」  目黒さんは室内からカップ麺のうどんを差し出してきた。強引に押し付けられる。  なにこれ。引っ越しのご挨拶にうどん? しかもこれ、重い、すでにお湯が入ってる。けど、温かくない。いつお湯入れたの? 「よろしくお願いします!」  「はあ、よろしくお願いします」  なりゆきで頭を軽く下げたら、目黒さんの眼が輝いた。 「あ、ネコ砂ですね! ネコちゃん、いるんですか? わたし、ネコちゃん大好きなんです!」  オレはうどんをぶちまけそうになった。 「いやいやいやいや! そんなわけないじゃないですか」 「そうですよね、ここ、ペット禁止ですもんね。で、いるんですか?」 「いやいやいやいやいやいやいやいや! まさか! オレはペットなんて飼ってませんよ」 「なら、なんでネコ砂がこんなにたくさんあるんですか?」 「……じ、実家のネコに送ってやろうと思ってですね! いやー、あのスーパーはネコ砂が安くていいですね! 実家のネコもきっと喜びます、じゃあ、さようなら!」  自室にネコ砂を蹴り込んで、ノブがもげる勢いでドアを閉めた。即施錠。  そのドアがノックされる。のんきで間延びした声がかかった。 「足立さーん、実家のネコちゃんの写真見せてくださいよー」 「いやもう、寝るので、本当に寝るので。その件はまたいつか! おやすみなさい!」  ヤバい、よりによって重度のネコ好きが隣に越してきた。しかもこんな夜中に、のびきった引っ越しうどん贈与だの、強めで長いノックだのを平然とやってのけるストロングハートだ。まさかプライベート領域にも超論理世界の人が侵入してくるとは。  そりゃ、オレだってネコになるから、完璧に普通の人類というわけではないかもしれないが……。  オレは遠い目になって、室内のネコトイレやエサ場やキャットタワーや爪とぎをながめる。  これ全部、自分用なんだよ、快適なネコ生活をおくるためにそろえたんだよ。だって一人暮らし始めるときに、ベッドやこたつや電子レンジなんかをそろえるでしょ? それと同じなんだよ。 「――目黒さんに見つかったら、終わりだ……」  ネコの時のひなたぼっこを楽しみにしてたが、もうカーテンは閉め切っておくしかないかもしれない。横たわって、長く伸びて、腹の毛が日光でじんわり温まるのは、思わずフミフミをしてしまうくらい気持ちよくて大好きだったが、万一、目撃されて大家さんに言われたら、オレはこの日当たり良好で格安な古いアパートから追い出されてしまう。  もし、いまネコだったら、オレのしっぽとヒゲは垂れてしまっただろう。  来月のネコの日がいまから怖い。
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