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1.ネコの日なので休みます
午前6:30。社畜のオレはアラームにたたき起こされる。昨夜の帰宅は25時だった。ぜんぜん睡眠が足りない。眠い。というか、頭と瞼が鉛のように重い。もう今日一日寝ていたい…が、そんなわけにはいかない。部署の他のゾンビを救わねばならない。
とにかくアラームを止めねば。スマホをぱん、とたたいた時、
「あ」
気づく。今日はネコの日だった。
スマホを叩いたのは、白い前足だった。正確には白い前足の裏の肉球だった。
ああああ、そうか、もう一か月たったのか……。激務続きで日付の感覚がなくなっていたのでわからなかった。でも、身体は正直だ。
今日はネコの日、オレは一日、ネコになってしまう日だった。
何を言っているのか、理解できないのは理解できる。オレも最初はそうだった。初めてネコになったのは、大学生の時だ。ある日突然、なった。もう意味が分からなかった。
――はあ? はあ? え、なにこれ、肉球? おしりのこれ、しっぽ?
仰天していたが、しっぽはちゃんと意図通りに動いた。その日一日、オレはどうしようもなく、なにもできず、ネコの姿で過ごした。丸くなって眠って、翌朝はいつも通りのムサい・もてないオレに戻っていた。
オレがネコになる原理は全くわからない。だが慣れれば、ネコの身体は快適だった。人間の身体よりもはるかに。たとえて言えば、三十代が回想する小学生のころのように、軽い。走れる、動ける。自分の背丈より三倍高い棚にもひょい、と飛び乗ることができた。そのとき、もちろん、しっぽはぴんと立った。うれしいとき、胸を張るとき、しっぽは立つ。それがネコの常識だ。
社会人になっても、毎月、一日だけオレはネコになった。そんなこと、会社には言えない。両親にも……相談しようと思ったこともあったが、「実はオレはライオンになるんだ」「お母さんはクマなのよ、大人になったのね、今日はごちそうにしましょう」とか言われたら、もう人権がなくなってしまう。だから、この世の誰も、オレが月一でネコをやっていることは知らない。このアパートはペット禁止なのだ。大家さんにバレたら、住む場所すら失ってしまう。病院なんて行こうものなら、実験対象へまっしぐらだ。これは絶対の秘密だった。
しかし、
「欠勤連絡……」
肉球のついた手をにぎにぎとグーパーしてみる。無理だ、液晶の番号を押せない。グーとパーはできるのだが、チョキはできない。会社へ「すみません、今日は体調が悪いので休みます」と電話するのは不可能だった。よく考えたら、仮に回線がつながったとしても、「にゃー」しか言えないから、人間語で説明はできない。
そもそもなんて説明するんだ? 課長はおそらく(ほぼ絶対だが)ネコにならない。こんな状態を理解してくれと言っても、「いいから早く出社しろやぁ!(ガチャ切り)」で終わりだろう。
あきらめるか。だって仕方ないだろ、ネコになっちゃうんだから。わざとじゃないんだ、本当に意志だけじゃどうにもならない。
あ、そうだ。ふと思いついて、万年床の横のこたつの上に乗り、開きっぱなしのノートPCのトラックパッドに触れる。モニターが点いた。このキーボードならなんとか押せるか……。爪を出したり、グーにしたり、四苦八苦してキーを押し、メールソフトを立ち上げる。会社宛ての送信メールを「全員に返信」する。
――YaすみIますす あsだち
送信。これでいいだろ。
ネコになると、思考まで軽くなる。ストレスが劇的に減るのだ。考える事柄が少なく、深くなる。左右の視野はカットされて、スポットライトのように正面だけ見える状態。その見る方向はヒゲや耳、鼻で決める。欠勤連絡を送ったことで、会社のことはスポットライトから消えた。
となると、あとはもう、おんぶお化けのような睡魔がのしかかってくる。瞼とヒゲの先が降りる。オレはこたつの上で香箱を作り、うとうととまどろみ始める。
今日はネコの日、会社は休んで、一日寝よう……。
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