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皐月に微笑む
『急な締め切りで遅くなる』
その連絡が来たのが7時ちょっと前だろうか。
いつものんびりした会社で、残業は珍しいな。
【了解。何時くらいになりそう?】
しかしその後もまったく返事はこなかった。
【先に食べ始めてるよ?】
【何時くらいになりそう?】
【そろそろ親は帰るって】
【俺も家に戻ってきた】
家に帰ってしばらくしても相変わらず六月から連絡はなかった。
そろそろ寝ようかなと思った時にやっと玄関が開く音がした。
「ただいま」
「うん」
「起きてたんだ?」
「うん」
悪びれる様子が全くない。
「月曜日はパンがいっぱいもらえるかも」
むしろ嬉しそうにしている。しかもパン?なんだそれは。
「あのさ今日さ」
「うん、残業だった。珍しいだろ?」
「スシロー忘れてた?」
ビクリっと六月が震えるのがわかった。
「やっぱ忘れてたんだ?」
六月は驚いた顔で瞬きを繰り返す。
いつものふざけた感じが全くない。たまに見せる真面目な顔。
六月は一瞬何か言おうとした。多分言い訳だろう。
でもそれを全て飲み込んで一言だけこう言った。
「ごめん」
「忘れてたの?」
「忘れてた。ごめん」
しっかりと俺の目を見つめてそう言った。
俺なんかの1億倍潔い。
『来週は中丸パンからたくさん差し入れが届くかもね』
急な残業は疲れたけど、堀米さんが優しくそう言って笑ったから嬉しかった。
たまには残業もいいかもしれない。
たまには。
ごくごくたまには。
そんな呑気な事を考えてる場合じゃなかった。
今日はスシローの日だったのに。
正直乗り気ではなかったけど、わざと忘れたわけじゃない。
でもなんだか決まりが悪い。
謝ったら、三月は何も言わなかった。
だから余計に決まりが悪かった。
風呂に入る気にも、夕飯を食べる気にもなれなかった。
自分の部屋に一人でいるのに、心の中では居間にいる三月の気配を意識している。
多分怖いからだ。
怖い?ばかばかしい。三月は俺に何もしない。むしろ優しいじゃないか?
それでも息苦しくてしょうがない。
ひとりになりたい。
息を整える。
部屋を出て、玄関に走っていく。
「コンビニ行ってくる」
返事も聞かずに逃げ出した。
家から1番近いコンビニはファミマだけど、途中の公園に羽虫が飛んでいて怖いから2番目に近いローソンに行く事にした。
ローソンは大好きだ。
ブルーにミルク缶の看板もかわいいし、からあげクンも売ってるし、ポンタカードが使えるし。
種類によって違うけど、ポンタカードに描いてあるポンタの虚ろな目が好きだ。
仕事とかしがらみとか人間関係(人間じゃなさそうだけど)とか、ポンタもきっと色々辛いんだろうな。想像するとついローソンでポイントを貯めて応援したくなってしまう。そういう健気さがある。
ポンタを応援するついでに何か美味しい物を買って、気分を切り替えよう。
日中はバカみたいに暑いのに、5月の夜はヒンヤリしている。
やっぱりひとりの方が楽だな。
でもその内、イヤでもひとりになるのだろう。
その時まで、もう少しだけ三月と一緒にいられたらいい。
だからちゃんと謝らなきゃ。
「おーい」
声をかけると六月が振り返った。驚いた表情。
『俺もコンビニ行きたくなって』
『こっちこそごめん』
『スシローの寿司は基本的にタッチパネルなんだよ』
『ところで太陽光発電の話だけど』
どれも言葉に出来なかった。だから黙っていた。
六月も黙っていた。
自分の気持ちがうまく言葉に出来ない時は、黙っていた方がいい。
そっちの方がかっこいいような気がする。
かっこいいとか悪いとかそんなことを考えてばかりいる自分が、かっこ悪い。
「ファミマじゃなくてローソン行くんだ?」
「ああ、うん。ポンタが好きだから」
「え?」
「ポンタの健気なところが好きなんだ」
「なるほど」
六月は時々なんか謎な事を言う。
俺はその謎なところがすごく好きだ。
ローソンに着くと六月は適当に生パスタなんかを手に取った。
それからアイスコーナーでコンビニ特有の強気な価格設定のアイスを品定めした。
「ハーゲンダッツを買ってやるよ」
「なんで?」
「好きだから」
びっくりした。
不意打ちだ。
『好き』なんて滅多に言わないくせに。
「好きだろう?ハーゲンダッツ」
「ああ、うん。うん」
俺が恥かしがっているのを見て、六月は満足そうにしている。
性格の悪い男だ。
でもいつもの調子に戻れた気がしてほっとした。
「お前にはハーゲンダッツを買うけど、俺は牧場しぼりにするよ。そっちの方が安いから。自分を犠牲にしてもお前に高いアイスを奢ってやるよ」
めちゃめちゃ恩に着せるじゃないか。
ローソンを出ると、びっくりするくらい寒い。
それなのに六月は買ったばかりの牧場しぼりを食べようとしていた。
「やめとけ腹を壊す」
「覚悟は出来てる」
そんな無駄な覚悟なんてしないでくれ。
不意に昔の事を思い出した。
「また紫陽花を見に行こうか」
六月の目が輝いた。
「行こう、行こう」
思わずにやにやしてしまった。
六月も笑った。
それから笑顔のままこう言った。
「お前の親と一緒とか言ったら、ぶっ殺す」
太陽光発電の話は、しばらくしないでおこう。
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