蟹を食べに行こう

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蟹を食べに行こう

五月は憂鬱  「六月君は元気かしら?」 母さんがそう言った時、絶対に聞き間違いだと思った。 誕生日に顔も出せなかった穴埋めとして、手土産を片手に久しぶりに実家に帰った。 その時母さんが言ったのだ。 「六月君は元気かしら?」 「へ?」 「六月君は元気なの?」 母さんは駄目押しのように、更に尋ねてきた。 六月(むつき)とはあの六月の事だろうか。 キツネ顔で、薄情そうな唇をしているあの六月だろうか。 地元の小さな広報誌の会社で意外とコツコツ働いているあの六月だろうか。 俺と一緒に暮らしていて、おとといキスしたばかりのあの六月だろうか? 「六月ってあの六月?」 ひょっとしたら俺の知らない間に、別の『むつき』がこの界隈に現れたのかもしれない。だから一応確認した。 「そうよ。あんたの家の六月君よ」 「なんでいきなり六月君なんて呼ぶんだよ。普段はそんな風に呼ばないだろ」 「あら、そうだったかしら」 誤解しないで欲しい。 母さんは俺達が一緒に暮らすことに反対はしなかった。 付き合っていることに薄々気が付いていたようだし、同居も意外とすんなり受け入れてくれた。もちろん実際どう思っていたかはわからないけどありがたかった。 でも母さんは普段、六月の事を『六月君』なんて呼んだりしない。 『あの子』とか『あの人』とか呼ぶ。 それは一昔前の「お姑さん」が「お嫁さん」をねちねちといじめる時のニュアンスに似ている。 「なんでいきなり元気かなんて聞くの?」 「そりゃあんたが日ごろお世話になっているから」 なんだか怖いな。 ちらりと父さんの方を見てみると、素知らぬふりして手土産に持ってきたバームクーヘンをもそもそと食べている。 うちの父さんは最中とかバームクーヘンとかカステラとか口の中の水分が無くなるお菓子が好物なのだ。 「今度ご飯でも一緒に食べたいと思ってるんだけど」 「え、誰と?」 「あたしと父さんとあんた達に決まっているじゃない」 いや、決まってない。勝手に決めないでくれ。 「ね、いいでしょう?」 「良くないよ。ダメだよ。だいたい六月はすごく人見知りだし」 「でもね、蟹よ」 「蟹?」 「蟹を奢ってあげる。だから行きましょう」 なぜか自身に満ち溢れた表情で母さんは言った。 一緒に暮らしている三月(みつき)は駅前のカルチャースクールで講師をしている。 今日は仕事が休みで実家に帰っている。 『この前誕生日だったし、顔を出してくる。遅くなるから先に寝てて』 『うん』 俺は何気なくそんな風に返事をした。だけど正直に言うと三月がいない夜は とても とても とても 嬉しい。 「お疲れ様。なんか今日はニコニコしてるね」 優しい上司の堀米さんが言った。 「そうですか?」 「子供みたいにニコニコしてる」 「そうですか?いつも無表情って言われるのにな」 「そんなことはないよ。きりっとしてるだけだよ」 相変わらず優しい。大好きだ。 「そろそろ失礼します」 「はい。お疲れ様。気を付けて」 スキップしそうな勢いで会社を飛び出した。 誤解しないでほしい。 俺と三月は決して仲が悪いわけでは無い。おとといの夜もとても仲良くしたばかりだ。 それでも時々無性にひとりになりたい時がある。正直に言うと毎日そういう時がある。 そもそも昔からひとりでいることが好きだった。 ひとりの時間が大好きだった。 だからわざわざ寝室を別に作れる間取りの貸家を借りているのだ。 今晩は、俺以外に誰もいない家が待っている。 わくわく。 わくわく。 わくわく。 頭の中では帰ったら何をしようか?という計画が広がっていく。 帰ったら、まずスマホをいじりながらダラダラと長風呂をする(普段は三月が長風呂なのでそんなにゆっくり入れない) それから、カシスオレンジを飲みつつからあげクンを食べる。 そして三月があまり好きじゃない、録画したクイズ番組を延々と鑑賞する。 最後に居間でごろごろしながら、畳にこぼすのも気にせずアイスを食べよう。 考えただけで、怖いくらいに幸せだ。 コンビニで買い物をして帰宅する。 わくわくしながら袋を開くと、からあげクン、カシスオレンジ、そしてアイスが2個出てきた。 自分の好きなアイスがひとつ。それからもうひとつ、無意識のうちに三月が好きなハーゲンダッツを買っていた。 変な気持ちだ。 あんなにひとりが好きだったのに、いつの間にか「一緒にいる」ということが生活の一部になっている。 変な気持ちだ。 「所長、太陽光発電の噂って知ってますか?」 実家に帰った次の日、カルチャースクールの所長に聞いてみると、思った以上に反応があった。 「聞いたよ。聞いたよ。なんだか随分儲かるらしいよね」 「なんですかそれ?」 才媛の誉れ高い同僚の柏木さんがいつものようにいぶかしげな顔をした。 「まあ、田舎によくあるやつです」 ①この田舎町の更に山奥に土地を買う。 ②そこにソーラーパネルを建てて太陽光発電をする。 ③電気会社が発電した電気を買い取ってくれる。 ④大儲け。 というシンプルな仕組みらしい。 「いいよね。それいいよね」 「めっちゃ胡散臭い話じゃないですか」 2人は両極端な反応を見せた。 「確かに胡散臭いですよね」 俺の一言に柏木さんは深くうなずき、所長は少し悲しい顔になった。 「そういうのって昔からありますよね。ねずみ講、マルチ商法、最近だと賃貸経営受託システム?」 「柏木君詳しいねえ」 所長の声を無視して柏木さんは俺の方を見た。 「急にどうしたんです?まさか発電する気なんですか?」 「いや、ただうちの母が興味津々で」 「母さんはなんで急に六月に会いたいなんて言い出したの?」 昨日、母さんがトイレに行った隙に父さんに聞いてみたのだ。 父さんはもそもそとバウムクーヘンを食べつつ答えた。 「なんか太陽光発電に興味があるらしい」 「太陽光発電って何?」 「ソーラーパネルを使って太陽の光で発電するというエコなシステムだよ」 「それは知ってるよ。そうじゃなくて、太陽光発電と六月は関係ないだろ」 「それが、どうやら六月君の母方の叔父さん?とやらがその太陽光発電で儲けたらしいって噂になってて」 「六月の叔父さん?」 六月の叔父さんなら見たことがあった。細身で割と小柄で、大人しい雰囲気の人だった。 姉である六月のお母さんとは少し年が離れているから、まだ割と若いはずだ。 でも東京で就職して結婚して、その後は確か更に遠方に引っ越したと聞いていた。 「六月の叔父さんはここら辺には住んでないはずだよ。その話、確かなの?」 「なんでも太陽光発電の会社の人が、叔父さんの奥さんの弟さんの知り合いの知り合いで、その縁で初めたら成功したって話だ」 めちゃくちゃ怪しいじゃないか。 「どっちにしろ六月は何も知らないと思うよ。だから食事も行かないよ」 「まあそうだろうけどさ」 「けど何さ?」 父さんはバウムクーヘンを食べる手を休めた。 「一回くらいゆっくり食事しても損はないと思うんだよ。六月君は父さんや母さんにとっても縁がある人間なんだから」 父さんは珍しくもっともらしいことを言った。 「でも行かないよ」 「ああそう」
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