珈琲奇譚 短編/完結

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 わたしは何を逡巡しているのだ?  確かにわたしは一度妻を、そしてあの子を裏切った。 しかし、今は妻を、あの子を心から愛している。 やり直さなければ。夫として、父として、やり直さなければ!  ………………!  放置されながらも、健気に湯気をたてているブレンドを口に運んだとき、私は悟った。 私をこの場所に縛り付けているのは、この良い香りがする茶色い液体なのだ……。 いや、コーヒーだけではない。馴染みのこの店、そしてわたしが胸にしまっていた青春の影。 思い出の鎖が、家庭と言う現実に戻る事を引き止めているのだ。  そもそも私は、なぜこの店を暇つぶしに選んだのか?。 馴染みとはいえ、最近ではチェーン店を利用する事が多い。 30分やそこらの時間を潰すのに、わたしの足は、無意識にこの店へと向かってしまった。  いくら胸にしまいこんでも、私には、青春の影がこびりついている。  ……何故こんな行動をとったのか、何年後かに振り返ったなら、今の自分をどう思うだろうか? そんな行動を、私はとってしまったのである。  私はウエイターに手を挙げ、もう一杯、ブレンドを注文した。  3度目の電話はもう鳴らなかった。  わたしは3杯のコーヒーと共に、大切なものを手放し、壊してしまった。  「こんな一時の思いで、一体何を考えていたんだ」  未来の私は必ずそう後悔するだろう。  しかし私は、それでもあの席を離れる事ができなかった。 あの時と変わらない芳醇なブレンドの香りが、心地よくもあり、憎らしくもあった。 ~彼の未来は 彼の過去には勝てなかった  人の心を見透かした ある珈琲のお話~
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