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地元の盟主であり、大病院の医院長である信也の父が、余命幾ばくも無い事を聞かされたのは、
信也と3回目のホテルに泊まった夜の事だった。
この日、堰を切ったように悩みを吐露し、実家の事情まで語りだした信也を見て、
信也にとって自分は「始めての女性」である事を本能的に悟った。
自分だけに悩みを打ち明ける信也を、哀れにも愛おしくも感じた。
そして、無性に信也と結婚したくなった。
いや、しなければならないと決意した。
あともう少しで、信也には莫大な遺産が相続されるのだから。
―*―*―*―*―
「お義母さん、前にも言ったはずですよ」
「わかってる、わかってるのよ、
あなたが信也を心から愛して結婚した、て事は」
義母は枯れ枝のような腕で車椅子を押すと、ベランダの引き戸に手をかけ、生温い夜風を招き入れた。
「でも年寄りになるとね、一日中可笑しな事ばかり考えてしまうものなのよ。
しかも体がこんなになってからは特に、あなたもじき解るわ」
年寄りの考え事は恐ろしい、少なくともこの義母の考え事は。
なぜなら、事の本質を図らずとも捉えているからである。
―*―*―*―*―
休日のある日、信也が道端で倒れた時にはもう手の施しようが無かった。
信也の脳は、ゴルフボールほどの腫瘍に巣食われていた。
抗がん剤で呂律を奪われながらも、自らの病状を客観的に分析する信也の姿に
晴海は彼にとってのアイデンティティーが何であるか、出会って初めて知った。
信也の遺体が霊安室に置かれ、線香の匂いが服に付着した晩、
弔問客の手前、ハンカチで顔を覆いながら入ったトイレの個室で、晴海は軽く拳を握った。
思えば、信也と結婚したのは、この瞬間のためであったと言えるだろう。
それがこんなにも若くして。
晴海は、若い頃踊ったあの曲に合わせて、鏡の前で無意識に踊り始めた。
嬉しくなるとつい踊ってしまった、あの曲に合わせて。
―*―*―*―*―
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