いきたそらかも

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いきたそらかも

 アイスコーヒーの入ったグラスでからんと氷が鳴ったのは、この店に入って小一時間たとうとしている頃だった。  私の向かいに座る男が熱弁をふるう。  君はすばらしい! 本当に、本当にすばらしい!! 君以上の人は今後千年は現れないだろう! 君ほどの人はいないのだよ!!  納豆にしょう油をかけない人を僕は初めて見た! しょう油をかけない納豆の味を知る人間が、この世の中にどれほど存在するかね? よほどの納豆職人をのぞいて、しかもしょう油のない納豆をあえて……調味なしだよ? 当然からしもなく納豆だけの味、においを愛する人が……君ほどの人はないんだよ。  弟はおしかった。刺身にしょう油も何もつけない、よくできた男だった。しかし、彼は刺身にしょう油をかけるような人間に成り下がってしまったのだよ。彼は非常におしかった。  その点、君はすばらしい。本当に……だって、納豆だよ? かけなくても食べられるではなく、何もかけないからこその納豆を愛するなんて、本当にすばらしい。  僕は君とだったら日本を世界を宇宙さえも全て変え、統べることが可能だと考えているんだ。君じゃないと、君がいないと世界は救われない……  びちょびちょになったグラスの中で、飲まれないアイスコーヒーのミルクの入った茶色の上にすっかり溶けてしまった氷が分離する。  ちらっと男の顔を見やれば、黒目は眼球の裏にいこうとするようにはち切れんばかりに上をいき、それでいて左へ右へとゆれている。その白い部分は細い血管がどくどくと、真っ赤に走っている。  納豆ほどしょう油を必要とする食品はめずらしいだろう。だが君は納豆からその大切なしょう油をうばえるほど残虐なんだ。納豆はしょう油を愛している……しょう油なしでは生きられないだろう? だが君はそんな相思相愛なふたりを引き裂き、しょう油ビンの目の前で、しょう油なしで……こねくり回したその糸をひきながらニタニタ笑いざまぁみろと食べることができる……やはりすばらしい、君ほどの人はないんだよ。  僕と君なら、いや、僕と君でしかこの世界、宇宙は救えない……  私は言い出せずにいる。この見も知らぬ突然目の前に座ってきた男に、神経質そうに両手の指と指をバシバシ合わせ、私をほめちぎるこの男に……私は、言い出せずにいた。  私はしょう油の入っていない納豆の味なんて、そもそも知らないのだ。  物心ついたときからたまに食べる納豆には必ずしょう油を入れてきた。調味されない納豆の味なんて全く知らない。  男の熱弁が止む気配はない。ただひたすらに熱弁をふるう。  僕はしょう油なしでは生きられない! 納豆なしでは生きられない! しょう油のない納豆なんてとても食べられたものではないだろう? 僕には無理だ! 納豆にはしょう油だ!! それを、それを引き裂くなんて!! 僕にはできない!! でも、でも君はすばらしい! 君は残虐だ!! 君ほどの人はないんだよ!!! 君ほどの人はないんだよ、君ほどの人はないんだよ、君ほどの人はないんだよ、君ほどの人はないんだよ……  私はときおり辺りを見回し、立ち上がるタイミングを見計る。誰もこちらを見ようとはしない。私とは誰も目を合わせてくれない。  この男は私の何を見込んだのだろうか。
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