掃除編-7章:言えなかった言葉

10/23

64人が本棚に入れています
本棚に追加
/164ページ
身も心もボロボロになって、やっと家の玄関に着いた。どうやってここまで来れたのか、よく覚えていない。中に入ると、自分のバッグを持ち出していた成が明るい声で迎えてくれた。 「彩響!おかえり!」 いまこの瞬間、最も会いたくて、最も会いたくない人。その顔を見た瞬間、抑えていた感情が込み上げてくる。彩響が視線をそらして答えた。 「…ただいま。」 「出版社の人と会ってきたんだろ?どうだった?本いつ出るの?」 悪気のないその質問が、嬉しくて切ない。切なすぎて涙が出る。彩響は顔をそらしたまま返事した。 「…ごめん、今疲れていて。」 「え?どうした?」 なにも言わないまま、彩響はそのまま自分の部屋に入ってしまった。様子がおかしいことに気がついたのか、成が追いかけてきた。上着も脱がずそのままベッドの上に倒れる彩響を見て、成の目が丸くなった。 「彩響?どうしたんだ、なにがあったんだ?」 「……。」 「彩響!」 成が無理やり彩響を抱き起こす。至近距離でその顔を見た瞬間、涙が溢れる。あのクソ野郎が足に触れた感触や、自分を見るその目つき、そしてこの数ヶ月間、必死で完成した原稿のことまで。なにもかもが一気に来て溢れ出して、胸が痛い。痛いどころか、息もできない。彩響は何も言えず、ただただ息を殺して泣いた。更に慌てた成が聞いた。 「お願いだ、彩響。なにがあったのか言ってくれ。今日なんかあったのか?」 「…さっき…。」 どこから言えば良いのか、どこまで話せば良いのか、混乱する中で彩響が口を開ける。思い出すだけでも吐き気がする。成は手をぎゅっと握ったまま、急かさず次の言葉を待ってくれた。 「…さっき…編集長という人に会ってきた。」 「そう、それでどうなったんだ、そいつになんか言われたのか?」 「私の原稿を、本にしたかったら…自分と寝ろって言われた。」
/164ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加