掃除編-7章:言えなかった言葉

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彩響の声に、成の動きが止まった。力が抜けた彩響はそのまま座り込んでしまった。おさまったかと思ったのに、また涙が溢れる。もうこの感情がなんなのか、それすら分からない。胸がいっぱいで、言葉がうまく出てこなかった。 「彩響…俺、なにを言えば良いのか分からないよ…。」 成が彩響の前に座った。苦しい顔で、彼が涙に濡れた頬に触れる。その優しい感触に、今までの出来事が爆発しそうにフラッシュバックする。幼い頃、母にノートを破られたこと、現実という壁の前で何回も挫折したこと。そして、もう一度夢を見たいと本気で思い、切実な思いで執筆を始めたことまで…。いつも明るい顔で応援してくれたこの人の顔を見ることすら辛い。頭の中がもうぐちゃぐちゃで、なにを言っているのか全く分からなくなった。 「私、本当に頑張ったのに、必死の思いで書いたのに…どれだけお母さんに侮辱されても、私にもできるってみせてあげたかったのに…。」 「知ってる。あんたが誰より頑張ったことは十分知っている。」 「触られたところが気持ち悪い…汚れた気分だよ、私も、私の小説も…」 「違う!!そんなことはない!」 成の大きい声がリビングに響く。驚いて顔を上げると、成がそのまま彩響の手を引っ張る。そのまま向かったのは、洗面台の鏡の前だった。ひどい顔の自分と向き合うと、さらにメチャクチャな気分になる。しかし成はいつかの大掃除のときのように、後ろで彩響の腰を抱いたまま離してくれなかった。慌てた彩響が後ろを振り向いた。 「なによ…今鏡みる気分じゃないよ、離して!」 「鏡を見て言うんだ。「私は悪くない」って。」 「なに言ってるの…」 「早く言って!!」 その声に、彩響は鏡の自分を見る。目は真っ赤で、顔はボロボロで、世界一苦しい顔をしている自分の姿が悲しい。やっと感情を飲み込んで、口を開けた。 「私は…悪くない。」 「もう一回。」 「私は、悪くない…悪くない。」 「もう一回。」 「悪くない。悪くない…。」 何回も後ろから「もう一回」と言われ、彩響も何回も同じ言葉を繰り返す。私は悪くない、私は悪くない、悪くない…。そうして口で何度も言うと、成が頭に顔を埋めた。顔は見えないけど、彼の声が少し震えるのを感じた。 「そう…。彩響、あんたは悪くない。悪くないから…。」 「……。」 「だから、いい加減泣き止んでくれ…。」 成がいたから、また作家としての夢を見た。 これまで辛かったから、きっとうまくいくと思った。 でも、一体いつまで苦しめばいいのだろう。 いつまで、こんな屈辱感と絶望感を味あわなきゃいけないのだろう。 いつまで、いつまで…。
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