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入居家政夫を雇う前は、一体どんな生活をしていたんだろうか。
成がいた頃は、そんなことを時々思った。決まった時間に起きて、栄養が整った食事をして、会社に行く。夜遅く帰ってくると、きれいでピカピカな家で、同じ笑顔で迎えてくれる。そんな生活が当たり前過ぎて、もうそれ以前のことはすっかり忘れていた。
そして、いざ彼が旅立ったあとはー
「佐藤くん。これ、コピーとってくきて。3枚くらい。」
「はい。今日のミーティング資料はもう出力しておいたんで。」
「あ、ありがとう。」
「岡崎さんに見せるサンプルは…。」
「昨日佐藤くんのメールに送ったよ?見てない?」
「あ…申し訳ないっす!今すぐ確認します!」
「ついでに、モデルのリストも送っておいたから、次のAブランドのスーツ撮影誰にするか、見て貰ってて。」
「はあ…承知っす。」
佐藤くんの質問に次々に答えつつも、キーボードを打つ彩響の手は止まらない。もう結構遅い時間で、オフィスに残っている人も少なく、余計彩響のタイピングの音が大きく聞こえる。しばらく時間が経ったあと、彩響がまだ自分の席に戻らずその場に立っていた佐藤くんを見上げた。
「あ、ごめん。またなんかあった?」
「いや、その…最近家帰るの遅いな〜と思ったんで。」
「なに言ってるの、たまたまだよ。この業界、徹夜は基本でしょう。」
「いや、それでもなんだか…こう…もしかして、彼氏さんと喧嘩したんすか?」
声を小さくして、佐藤くんが質問する。ああ、そうか。そういう誤解をしていたのか。彩響が軽い溜め息をつき、顔を横にふった。
「だから、彼氏じゃないから。そして、あの家政夫さんはもうやめました。」
「え?やめたんすか?いつ?」
「そうだね…もう3ヶ月くらい前かな…。」
「そんな、喧嘩をしたならきちんと話をして…!」
「だから、違います。…もうこの話はやめてくれない?私、まだやること多いよ。」
「あ…すんません!」
佐藤くんが慌てて自分の席に戻るのを見て、彩響はまた普通にモニターに視線を戻した。そしてすぐ、テーブルの上に置いてあったスマホの画面を手で触れた。
(特に通知無し、か…)
メッセージも特になく、着信記録もない。もう無駄なことだと知っていても、この行為をやめられない。それでも最近はその頻度が結構減ったものだ。彩響はスマホを置いて、窓の外の風景に目を移した。いつもと変わらない夜の風景、変わらないオフィスの音、そして…。
(私も、結局変われなかった。)
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