掃除編-7章:言えなかった言葉

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職場と家だけを往復して、夜勤と徹夜は当たり前で、ただただローンを返すためだけに稼ぐキャリアーウーマン。成に会って、一緒に掃除して、一時期はまた別の人生が訪れるかもしれないと思ったけど…やはり小説やドラマのように、そんな簡単にバラ色の人生がやってくるわけなかったのだ。今になってくると、もしかしたら成を雇ったのもなにかの幻で、実は彼自体も妄想に過ぎないかも…って、思ってしまう自分に笑ってしまう。 「じゃ、佐藤くんもきりがいい時に帰ってね。」 「あーはい、お疲れ様っす!」 ギリギリ終電に乗り、最寄り駅で降りて、線路沿いをてくてくと歩く。ばったり「誰か」と出会うかもしれない、そんな無駄な期待を抱いたまま、玄関のドアをあける。一時期はわざと「ただいま」なんて言葉を言ってみたりもしたけど、もうそれもやめた。なにも返ってこないこの家が更に暗く見えてきたから。 リビングに入ると、朝出勤した時と微妙にモノの位置が変わったのに気がついた。 (そうか、今日は家政夫さんが来る日だったか。) 週2回来てくれるだけでも、まあ家はなんとか綺麗さを維持はしていた。もちろん、成が毎日掃除してくれていた頃とは比べられないけど…彩響は電気も付けないまま、そのままソファーに座った。 ーブブブ!! 「うわっ!!」 思わず大きい声を出してしまった。彩響は慌ててスマホの画面を確認し、すぐがっかりした。相手はずっと待っていた「彼」ではなく、母だった。「あの事件」以来一切連絡を無視していたので、かれこれ約6ヶ月くらいまともな会話をしていない。いや、そもそもまともな会話なんてしたことはないけど…。緑のボタンを押すと、すぐ母の声が聞こえた。 ー「彩響?やっと電話でてくれたね。」 「なんでしょう、お母さん。」 ー「まだあのときのこと怒ってるの?あなたも本当頑固だよね。本当、父親そっくりだから。」 暗闇の中、母の声は相変わらず大きくて、傲慢で、礼儀のかけらも見当たらない。なぜこの電話に出てしまったんだろう、彩響はすぐ後悔した。3年くらいーいや、永遠に連絡なんかしなくてもいいのに。未だにまだ自分の胸の中で「娘としての罪悪感」が残っているようだった。 ー「私もね、娘がなにか特別な分野で売れたりすると嬉しいよ?でもあんたもいい加減自分の実力を認めるべきでしょう。認めるのも勇気なのよ。」 「……。」 ー「聞いてる?お母さんはあんたのために言ってるのよ。だって、もしあんたに本当に才能あったとしたら、その歳になるまでどっかでデビューしてるはずでしょう?その小説とやらを書いて、今まで1円でも稼いだの?違うでしょう?」 「お母さん、もう結構です。」 ー「あんたがいつまでも自分の過ちを認めないからいけないのよ。いい加減現実を見て、早く結婚相手を探しなさい。」 (…過ち?) 何が過ちなんだ、夢を見ることが?母が望む「いい娘」になれないことが?言いたいことが口まで上がってくるけど、結局何も言えない。母が言う通り、自分が見ていた夢は結局セックススキャンダルだけ起こして消えてしまったから。 母にこのことを知られたら、何を言われるかー想像するだけで吐き気がする。真っ先に自分を責め、再び「愚かな女」扱いされるに間違いない。彩響は結局なにも言わず、そのまま通話を終了してしまった。幸い、向こうからこれ以上の連絡はなかった。 「はあ…。」 自分の部屋に入り、ベッドの上に倒れた。薄暗い空気の中、机の端っこにずっと放置していたTreasue Noteが見えた。あの日以来、見ることすら辛くて、でも捨てる勇気もなくて、結局今までそのままになっている、悲しみのノート。あっちこっちに付いているテープの痕跡を見ると、また胸が苦しくなる。ノートに向かい、恐る恐る手を伸ばすが…結局触れられず、彩響は枕に顔を埋めてしまった。 ー掃除で人生が変わる? 笑いしか出てこない。本気でそう思っていた自分がバカバカしい。 どうせ自分には向いてなかったのだ。今やってる仕事をただただやり続けて、人生こんなもんだと思っていれば、こんな苦しい経験はしなくてもよかったのに。 (でも…) 成といた時間は、とても幸せだった。 彼がいてくれたときだけは、とても楽しかった。 なにもかも全部津波に連れ去られてしまったけど、その笑顔だけは確かに胸の中で生きている。 (成…今頃どうしてるのかな。) ー会いたい、成にすごく会いたい。 彩響はまたスマホの画面を確認して、長いため息をついた。
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