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一瞬なんて答えて良いのか、悩んだ。幼い頃の夢?悲しい過去の痕跡?いろいろ考えた結果、彩響はもっとも無難な答えを選んだ。
「…幼い頃使っていたノート。」
「今まで持っていたの?」
「そう。ーていうか、ずっと忘れていた…ベッドの下に置きっぱなしにして。」
「日記帳には見えないし、なに書いてるの?」
「アイディアとか、話のネタとか…。あの頃は作家になりたいと思って。」
もう昔の話に過ぎないけど、それでも心のどこかが寂しい。微妙な心境の変化に気がついたのか、成がこっちへ一歩近づいて来た。少し心配そうな顔で、彩響の顔をじっと見る。
「幼い頃って、どれくらい?」
「さあ…小学生から中学生くらいかな。」
「その後は?何かあったの?」
「まあ、人生色々あるでしょう。人間誰しも成長と共に現実的になる訳だし、私もそうなっただけ。」
「あのさ…なんで作家になることが非現実的な話になるんだ?実際いるだろ、小説家とか脚本家とか。」
「それは才能を持っている数人だけ。私にはそこまで才能がなかっただけの話よ。」
成はやはり納得のいかない顔をする。ああ、まだ20代の若い青年だからこんな前向きになれるのかしら。ますます苦々しくなる。
「母に言われたの。もう夢見る年でもないから、いい加減現実的になりなさいって。医者とか弁護士とか、それぐらい立派な職を持てないくらいなら、会社に入って毎月給料もらって安定するのが一番だって。」
「そう思う人も世の中にはいるだろう。でも、それ母親が小中の娘に言うセリフか?誰もがこんなアイデアノート作れるわけでもないのに、こんなものを作った時点でもうある程度の才能はあるはずなのに。支えるどころか、最初から夢見る余地さえ与えないなんて、ひどい母親だ。」
ー「夢は明日のお米の心配しなくてもいい、そういう連中が気楽にやるものなの!」
成の言葉に、ふと母が言っていた言葉を思い出す。
そう、こいつもきっと明日のお米を心配しなくていいやつだったんだろう。正直、羨ましいと思う。気楽に夢とか言えるのもそうだけど、なにより、こんなにも明るく誰にも接することができるその性格が…。
「いくら生活が厳しくても、辛くても、それを子供に八つ当たりして、「現実を見ろ」と言う母親なんて、最低。大丈夫、もう母親のことを気にする年でもないし、その分、俺があんたを支えてあげる。」
成が自分の手を出した。最初意味が分からずジロジロ見ていると、成がノートを指で指した。
「そのノート、俺にくれ。」
「…なんで?」
「いいから。」
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