5人が本棚に入れています
本棚に追加
忘却とラベンダー
初めはワスレナグサだった。五月の夜明けに盗まれたのだ。私の庭に入った泥棒によって。
私の植物園は広い。数百種類の植物が植えられている。四エーカーの宝物を父から受け継いだのだ。父は早死にしたが、植物学者になることを夢見ていた。
庭はモミジツタの覆うブロック塀で囲っている。塀内の地面には足あとが残されていた。塀は高さ六フィートだ。背の高い大人くらいの塀を乗り越えるには準備がいる。衝動的な犯罪ではない。あらかじめ計画し、準備して忍び込んだのだ、ワスレナグサの計画的窃盗だ。
「花盗人を責めてはいけない」
先生は言った。客間で彼女と向かい合う。初夏の太陽が部屋に影を落としている。
彼女は父を教え私を教えた。私に子ができればその子も教えるだろう。
「良い格言です」
短気で急激な変化に弱い私を一人前の大人に教育した彼女は忍耐強さで知られている。
「責めはしません。償わせるだけだ」
心因性の湿疹を袖で掻きながら私は言う。
「警察はなんて」
「見回りを強化します、とだけ」
ワスレナグサが掘り返され、奪われた事に気付いたのは今朝、見回り中のことだった。私は即刻警官を呼んだ。やってきた警官は現場を見聞し、質問をし、被害届を受理した。受理しただけだということは、働いたことのない私でもわかる。凶悪性のない軽犯罪を、彼らはこう言って見過ごすのだ。
子どものいたずらかもしれませんね。
誰のいたずらだろうと、許さない。
「過激にならないで」
「なりませんよ」
使用人は休暇中だった。私の淹れた茶を飲み、彼女は忠告する。
「貴方、最近評判がよくないわ」
「大丈夫です、先生」
先生と天気や哲学の話をして時間を潰し、盗人のことを考えないようにする。しばらくして先生が辞する時間になった。
「今度、蔵書を刷新します。見繕うので意見を聞かせてください」
「いいでしょう」
門まで行って、杖をつきながら小さくなっていく彼女を見送る。
横を見ると地面がむき出しになっている。痛ましく掘り返されたワスレナグサの跡だ。
門の前に荷車が止まる。
すでに手は打ってあった。
防犯装置を付け終わり、職人たちは帰って行った。装置は木で作られた簡素なものだ。取り付けたのは庭の四隅にあるカシ、クリ、アカシア、カエデの木だ。庭中に張り巡らせた金属の糸と連動させてある。何者かが糸に触れたらすぐに作動する。救急車のサイレン並みの七十デシベルで不法侵入者の存在を私に知らせるのだ。
私は防犯装置に教えてもらい家を出、犯人を捕まえ警察につき出せば良い。二度と我が屋敷の庭が泥棒の手で蹂躙されることはなくなる。私の庭園に安寧が訪れる。
私は気分が良くなり、その日はぐっすりと眠ることができた。
防犯装置が作動したのは一週間後だった。
装置が大きな音で闖入者の来訪を告げた時、私は眠っていた。
夢で、父に連れられて庭を歩き回った昔の日を見ていた。種々雑多な植物に目を引かれて私は父に質問するのだった。しかし返事は帰ってこない。
私は目を覚ました。
夜の静寂に警報音が鳴り響いている。
事態を把握するのに数秒とかからなかった。寝室の扉を開け、廊下を走り、階段を一段飛ばしに降りる。月明りが床に落ちている玄関を駆け、石段を飛び降りる。
目の前には夜の庭園が広がっており、いつもより広く感じる。塀が闇に溶けているせいだ。
警報音がしたアカシアの木の方へ私は走り出す。
誤算があった。アカシアの木は敷地の北端にある。屋敷から走ってそこへ着き、逃げようとする泥棒を捕まえなければならないのだ。暗闇の中、たった一人で。
月明りの下、ラベンダー畑を通り過ぎる。砂利道に飛び出したラベンダーの茎や葉が足元を湿らせる。朝露だ。夜明けが近いのだ。
息を切らし、立ち止まって目を凝らす。先の方に動く影があった。
人だ。体格からして男だ。
侵入者は塀に跨り脚立を引き上げていた。
私は再び走り出した。塀の向こう側に脚立が消えていく。
愚かにも動揺し、声をかけて男を止めようとする。私の制止を耳にした男は急いで脚立と共に塀を降りていく。
人影の消えたツタ壁の向こうで靴と脚立が地面に当たる音がする。
ようやく塀に行き着く。庭から出る門へは遠いので、塀を飛び越えでもしない限り追いつけない。
足音は遠ざかって行った。
なす術もなくレンガを手探りで進むうちに、平静さが戻ってきた。
近くの地面が掘り返されていることに気づく。そこにあった花は、父が特別気に入っていた。キク科の多年草、シオンという名の可憐な花。今では空虚な穴だけがそこにある。
夜が明けて、私は警察に出向いた。犯罪が繰り返されたこと、常習性があることを告げる。警官らはしかつめらしく私の話を聞いて書面にした。
彼らの緩慢な態度に期待することはできなかった。
屋敷に帰り、納屋の扉を開ける。
私は長期戦を覚悟していた。
納屋から出したパラソルをテラスに張り、椅子に座る。ここから庭を監視するのだ。
右手の湿疹がひどく痒い。盗難が起きてから治っていない。反対の手でペンを持ち蔵書の目録を調べる。先生と約束した蔵書整理の日が近かった。
数時間後、庭にある男が現れた。初めのうち、男は庭でうろちょろしていた。背格好から昨夜の泥棒でない事は明らかだった。しかし敷地に無断で入るのは犯罪だ。
テラスからおい、と声をかける。男は驚いたが逃げる様子はない。こちらへやって来て、テラスの前で止まり仰々しく挨拶をする。時代錯誤のみすぼらしい恰好だ。
何者かと問うと、こう答える。
「僕?僕は詩人だ」
「どんな詩を書く」
「男手が必要な寡婦には悲歌、迷い猫探しには田園詩、恋文の代筆には物語詩…」
要は何でも屋だ。町が都市化していくにつれ様々な仕事ができた。彼も新しい職業者だ。胡散臭い人間達だが法は侵さない。仕事熱心で、花は盗むより買って愛でる浮き人だ。
「ここで何を?」
「思索にふけっていたら迷い込んでしまって」
私は庭の出口を示す。詩人はところで、と言う。
「花泥棒が頻出する園とはここかな?」
「どうして分かる」
「警官たちが談笑していて」
私たちの間を涼しい風が吹く。
詩人がどうだろう、と提案する。
「僕を雇うというのは」
私は考える。いい警備員になる、と詩人が言う。
「必ず奴を捕まえてくれるなら」
私達は握手をした。
こうして詩人は屋敷に出入りを許された。
詩人は有能な働き手ではなかった。思索にふけっては花壇に踏み入り、度々東屋で怠けた。しかし警備員としての役割は果たした。頻繁に姿を見せていた野良猫もいなくなった。昼夜問わず庭を徘徊する詩人を警戒したのか、花盗人もなりを潜めていた。
先生との約束の日は曇天だった。
しかし私は晴れ晴れした気持ちで迎えることができた。右手の湿疹も治りかけている。
先生のために午前は料理を、午後は掃除をした。
彼女がやってきたのは夕暮れと同時だった。丁重に出迎え、挨拶をする。上階奥にある書斎に案内する。庭は詩人に任せておけばいい。
膨大な数の蔵書を祖父や父は残していった。しかし中には用をなさない本もある。日に焼けたり虫が食ったりしたものだ。
「では、ひとまず安心なのね」
糸で留まっているだけの紙束を手渡し彼女は言う。何度も読み返され、かろうじて本の体裁を保っているものだ。それを受け取り私は、ええ、と頷く。処分するべき本の山に載せて言う。
「警備員を雇いましたから。いつまで居るか分かりませんが」
「人と打ち解けることは大事です」
その言葉に先生が色々な含みを持たせていることは感じ取れた。
あなたは優しいから大丈夫。
そう付け加えた彼女の言葉について手を止めて考える。
抜き出した本が溜まっていた。私は本の山を抱えて階段を降りた。何度も行き来しては玄関に要らなくなった本を積み上げる。
詩人が姿を現した。
「花の様子は」
「問題ないよ」
そう言って興味深げに本の山を見る。
「気に入ったものがあれば読むといい」
私は良い気分で扉を閉め彼を後に残した。
空が陰る夕方、防犯装置が鳴った。
窓から外を見る。見覚えのある脚立が庭にあった。花泥棒だ。塀から降りる時に置いた脚立が防犯装置の糸に反応したらしい。
いつもより早い時間帯に奴は現れた。よれた服装が闇夜にはためく。帽子を目深にかぶっていて顔は見えない。
私と先生は窓辺に立ち彼を見た。詩人が現れるのを待つが、現れない。まだ現れない。
泥棒は屋敷の近くにある花壇の前で立ち止まった。私はしびれを切らして窓を離れた。部屋を飛び出し階段を駆け下りる。
詩人は居眠りをしていた。積まれた本を枕にしている。昨晩遅くまで詩を書いたなどと言っていた。彼は頼みにしない。花泥棒は屋敷の近くまで来ている。この距離なら捕まえられる。
玄関に寝そべる詩人を跨ごうとする。詩人が伸びをする。古本の山が崩れる。私は足を取られて転んだ。
地面に腹ばいになって見たのは、走って遠ざかっていく泥棒の後ろ姿だった。
泥棒の相棒である細い脚立が打ち捨てられている。
掘り返された跡地を見る。ここには淡い水色の花があった。繊細な花弁のストケシアだ。痒みを伴い湿疹が右手に広がる。怒りに頬が痙攣する。
徹夜明けの読書は眠くなるな。そう言いながら詩人はやって来て、呟く。
「手あたり次第というわけではないのか」
詩人の襟首を掴む。
「大丈夫?」
先生が戸口に現れる。
蹴り飛ばしたい衝動を抑える。
「次に姿を見せたら警官を呼ぶ」
詩人を門の外に引っ張っていき閂を閉めた。
足を引きずって犯行現場へ戻る。
特別愛着があった花というわけではない。だからこそ突然に奪われた悲しみは大きい。それは平凡な日常の一部だったのだから。
私は屋敷に入った。
数日気分が塞ぎ家にこもった。
庭の手入れもしていない。これは暗喩だ。盗みたければご自由にどうぞ、というメッセージだ。
希望は、数日経てば使用人達が休みから帰ってくることだ。庭師も戻る。庭は元の平穏を取り戻す。犯人は人気を恐れて近づかなくなるだろう。しかしそれでは犯人は誰か、犯行の理由は何かが、永遠に分からなくなる。
窓から庭を見る。塀をよじ登り詩人が庭に入ってきた。
庭を歩きながら頷いている。
私は屋敷を出て彼のもとへ行く。
「次に盗まれる花が分かったよ」
青紫の小さな花が集まって咲く植物の前に立つ。リモニウムだ。
「盗まれた花に共通するのは花言葉だ」
彼は古本を取り出した。処分するために積み上げた古本の山の一冊だ。
『世界の花詞』と印刷された金の文字が消えかかっている。
詩人は読み上げた。今まで花泥棒が盗み出した花たちと、それらが持つ言葉を。
「まず、ワスレナグサは『私を忘れないで』。次に、シオンは『貴方を忘れない』。そしてストケシアは『追想』」
最後にリモニウムは、と言ってよこした本を私は読む。
「『途絶えぬ記憶』」
「盗まれたのは思い出に関係する花ばかりだ。だからこのリモニウムが次の標的と分かるのさ。他にはもう、思い出を意味する花はないからね」
私は本を地面に置く。風が本をめくる。
私と詩人はリモニウムの周りで寝ずの番をすることに決めた。幸い近くに東屋があった。
夕方になって屋根の下に入る。毛布にくるまり、犯人が現れるのを待つ。
プラムの実を食べにくるカケスが鳴いた。この辺りを統治する大きな猫が横切った。初夏とはいえまだ夜は寒い。毛布を強く握る。
詩人は何か呟きながら小さな紙に新作を書きつけている。
暇つぶしに本をめくり花詞に目を通す。見覚えのある花の名前が連なる。私の庭に咲く花たちだ。
犯人は八時過ぎに現れた。
塀に兆候が現れた。柔らかいものが塀に当たる音がする。そちらを見ると縄梯子が塀から垂れていた。前回置いて逃げて行った脚立の代わりだ。
犯人が塀を降り、近づいてくる。若い痩せた男だった。手には懐中電灯を持っている。犯行に必要な道具というわけだ。
男はリモニウムの花壇に踏み入っていく。数秒、花の前で立ち止まる。確めているのだろう。そして男はしゃがみ、地面に手を突っ込んだ。柔らかい土は簡単に花を傾けた。
詩人の方が早かった。東屋を出て花泥棒の方へ向かって行く。
花泥棒はこちらを振り返る。状況を把握したらしい。はじかれたように走り出す。塀まで二十七ヤードある。
詩人が俊足なことを私は知らなかった。
花泥棒に追いつき捕まえかける。だが泥棒は上着を脱ぎ、それを投げつけた。詩人は不意を突かれ一瞬立ち止まる。
花泥棒は近道をするためにミント畑に踏み入った。
踏み荒らされてミントの香りが漂う。花壇に入られてかっとなった私はそばにあった中型の日時計を拾って投げる。
当たり所が悪くても死にはしない。
日時計は夜空に弧を描き飛ぶ。
花盗人の頭に当たった。驚いて地面に均衡を崩す。
詩人が追いついて泥棒の肩を叩き、やれやれ、と笑う。
速足で近付き私は花泥棒を立たせた。顔を一瞥する。出血はない。人生に絶望した顔をしている。現行犯逮捕のせいではない。若いうちはとかく人生に絶望しがちだし、町はこういった人間で溢れている。
「一連の花泥棒はお前か」
そうです。
若者は言い逃れしなかった。
警官を呼べ、という私を詩人は諫める。
警官はろくに訳も聞かず軽犯罪として処理するだけだ。理由を聞こうじゃないか。
どちらにせよ派出所へ行くには上着が要る。私は花泥棒を屋敷に入れた。
書斎に彼を座らせて話を聞く。
彼は町工場の労働者だ。妻と二人で暮らしている。
この町の出身ではなく、遠い田舎町から妻と来た。
妻の家は豪商で、彼はその屋敷に出入りする御用聞きだった。
初めはお互い何の感情も抱かなかった。しかし年を重ねるにつれて親密になり、惹かれあった。二人が結ばれるには駆け落ちという道しかなかった。
新しい土地に移り住み生活を安定させるために働いた。長いこと二人は働き詰めだったが幸せだった。何しろ妻は新しい命を宿していた。
そんなある日妻が倒れた。
過労による脳の病気、というのが医者の診断だ。若年性健忘症は記憶をむしばむ虫だ。
些細な事に始まり大切な事に至るまで全てを忘れていく。日に日に記憶が薄れていくのだ。
初めに消えたのは歌だった。口ずさむが、歌詞が途切れる。同じ所でつまずき、最後まで歌うことが出来ない。
次に消えたのは料理だ。夫の好物を作ろうとするがどうしても手順が思い出せない。
治療には金がかかったがどうすることもできない。彼女を失ってどうして幸せを築いていける?
夫は逃げ出した田舎に手紙を書いた。窮状を訴え、援助を乞うた。
手紙は戻ってきた。彼らの遁走後、商家は不況のあおりで没落した。屋敷を売って別の町に越したらしい。頼れる者はいなかった。
唯一の希望が潰える日が来た。堕胎せざるを得ないと分かったからだ。彼女の面倒を見ながら子どもは育てられない。彼女が貧窮院に入れば話は別だ。
そうなっても構わない、と泣く彼女に彼が反対した。
二人の仲は一時冷めきり、その内彼女は一人で外出することもできなくなった。
ある日、この小さな靴下はどこから来たの、と妻は聞いた。靴下は彼女が編んでいたものだ。生まれてくるはずだった子供のために。
妻は入院した。彼女に会うため、彼は足繁く病室に通った。笑顔を見せるために病院を訪れては悲嘆にくれ帰途に就いた。
現存する治療法は試し尽くし、気が付けば全財産が消えていた。殺風景な病室を飾る花一輪すら買ってやれない。夫は心労に疲弊し、肉体と精神は狂っていった。
花が好きだった妻に送るための花を探してこの庭に行きついた。
花を盗むのが見つかれば罪になる。
見つかってもいい、と思えた。
ただし捕まるなら意味のあることをしたい。花言葉を調べ妻へ送る思いを託そうとした。
次の日、面会に行くと彼女は笑顔だった。そして言った。
おはようございます、お医者様。
自分を忘れないでほしい。この思いを花に託して贈ろう。彼女は花が好きだから。思いを託した花を見て喜んでくれるなら、どんな危険もいとわない。
花盗人は黙った。
窓辺に座った詩人が私を見る。
「警官を呼んでくる」
私は上着をとり、部屋を出る。
階段を下り、ため息をついた。
一階の奥にある小さな部屋は、庭師のものだ。あと数日で庭師がこの部屋に入り、庭を行き来するようになる。全て元通りになる。
園芸用具の引き出しから園芸鋏を取り出す。
夜の庭に出る。雲を透かして下弦の月が見ていた。
青紫の芳香を放つラベンダー畑に立つ。
一束刈り取る。病人には香りも良いだろう。
先にいた部屋を見上げた。
詩人の声が聞こえる。
「安心したまえ。警官には顔が聞く。とりなしてやろう。しかし、花言葉とは詩作にも利用できるな。こんなのはどうかね。ポピーは『慰め』、ミントは『美徳』、ラベンダーは『許し』…」
最初のコメントを投稿しよう!