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ある日の午後、夕子とカフェで会った。
彼女は一枚のCDを僕の前に置くと、「今までありがとう」と言った。それは長く貸していたお気に入りのCDだった。
「いや、構わないさ」
僕はそう答えただけだった。
家に帰って、久しぶりに聞こうとそのCDを出すと、中にはカードが入っていた。
「さようなら」と、彼女の癖のある、あの字でそう書かれていた。
僕は、ただ、そっか、返事を間違えたなと思っていた。
そして、そのCDは聴かずにCDラックに置いた。
そういえば、彼女の持ち物がないのに、今さらながら気が付いた。
あと、テーブルには渡していた合鍵が置かれていた。
彼女が付けていたウサギのキーホルダーがそのままだった。
その合鍵を手に取ると、食器棚の引き出しにしまった。
引き出しを閉めた時、何かそれはココロを閉じる儀式のような気がした。
軽く首を振る。
窓辺に行って窓を開けると、柔らかな陽射しに誘われて、春らしい匂いのする風が入ってくる。
そっか、春か。
ただそう思っていた。
夕子からしてみれば、僕がこんな感じなので、いろいろつまらなかったのだろう。遊びに行って、彼女がはしゃいでいても僕は横でニコニコしているだけ。
何度も「ねえ、本当に楽しんでる?」って聞かれた。
「うん、楽しんでるよ」って答えたけど、彼女にはそうは見えなかったのだろう。
僕は本当に楽しんでいたんだ。でも彼女には、ど突かれた。
「私といて、幸せ?」
そう聞かれた時も、僕は「うん、幸せだよ」と、心を込めて言ったつもりだけど、彼女の表情は明るくならず、ただ悲しそうだった。
そんな時、僕はまた間違えて、彼女が欲しいものをあげられなかったんだなと思った。
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