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その3
翌朝、アイヴィーは満ち足りて目を覚ました。
視線を落とすと、脱ぎ散らかした二人の服、食べたままの食事のあとが目に入る。よし、まずはこいつらからやっつけないとね。
ゴロッと寝返りを打つと、シンが隣であお向けに寝転がり、スマホをいじっていた。
珍しい。
シンのこんな姿、久しぶりに見た。
何年も前、カメラマンの松下のおばちゃんと出会った頃のシンは、いつもこんなだった。暇があれば、ゴロゴロしながらスマホをいじってたっけ。
満たされない思いをぶつける先が見つからなくて、いつも吠えてばかりで。トラブルで仕事を辞め、バンドを辞めの繰り返し。あの頃はギターもほとんど弾かなかった。
今のシンは、あの頃のシンとは違う。
「ニー・ストライク」は、シンとドラムのミッチが大事に育ててきたバンドだ。あの頃のシンだったら…とっくに辞めているだろう。
仕事だってそうだ。シンがどん底から這い上がってきた時、ゴンちゃんの紹介で就いたのが今の仕事。日銭を稼ぐ以外に、仕事に価値を見いだせなかったシンは、左官を通じて「働く喜び」を知った。
今のシンの人生に、無意味なものなんて一つも無い。いや、もともと無かったんだ。気づいてなかっただけで。
そんなシンが、「未来を変える」と言った翌朝にスマホをいじっている。その表情が以前とは全く違うのは、アイヴィーにはすぐに分かった。
シン、何かを始めたんだね。
本音を言えば、今朝はもうちょっと甘えて過ごしたかった。
けど、彼の闘いが始まったんなら、邪魔はしたくない。
アタシも行動を起こさないとな。
アイヴィーは勢いよく、ベッドから跳ね起きた。
シンは床の上で腕立て伏せをしていた。
額には大粒の汗が光っている。かなり長い時間、トレーニングしていたんだな。
「ただいま、シン。」
「おう。」
外出から帰宅したアイヴィーは、シンに声をかけながら黒いマスクを外した。
お気に入りの布製マスク。仲間のキミちゃんが手縫いしてくれたマスクだ。抗菌効果は無いけど、代わりに愛情で守られているんだよ。
朝の散歩がてら、高円寺の街をぐるっと一周してきた。
高円寺の代名詞と言うべきアパレル店舗は、軒並みシャッターを降ろしている。この時間帯ならいつものことだけど、店先には「一時休業」の貼り紙、どこも貼り紙。
アイヴィーの販売ルートのメインはウェブショップ。ただ、高円寺内の知り合いの店には何軒か商品を卸している。
いま、その中で営業を続けているのは一軒だけ。あのオーナーなら、たとえ地球が滅亡しても、自分のやりたいことを続けるだろう。
だからといって、今みたいな状況でアイヴィーの服が飛ぶように売れるわけじゃない。いずれにしても、他の手を打たないとね。
考えは、ある。高円寺を歩きながら、頭の中をまとめた。
自分がいま、やりたいこと。やるべきこと。
シンがうめき声をあげ、倒れ込むように腕立て伏せを終わらせた。自分を限界まで追い込み、息を切らせている。
倒れるのとほとんど同時に、彼のスマホが一度だけ鳴った。
シンは苦労して机の上のスマホに手を伸ばし、長い間画面を見ていた。
それから、何かを打ち込んでスマホを置いた。
シンがニヤッと笑いながら、アイヴィーの方に向き直る。
「すげえな。客が、ついたよ。」
そう言い残して、彼はよろよろとシャワーを浴びに行った。
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