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その9
「どう、面白かった?」
汗まみれの顔を拭おうともせずに、アイヴィーがカメラに向かってほほ笑んだ。
「アタシたちも、最高に楽しかったよ。観てくれてありがとね!」
「次は、どんなライヴをやるかな。今夜とは全く違うこと、やるかもな…退屈はさせねえぜ。」
「ゴン、ハードル上げるねえ!」
「うるせえ、ショージ!」
同じ部屋にいたら、間違いなくゲンコツを食らわされてる。早く、そんな距離で演りてえな!
「ゲストはシンでした!みんな、拍手してねー!」
画面いっぱいに、アイヴィーの笑顔と、肩を掴まれて苦笑するシンが大写しになった。
「このまま、このままね。」
画面から消えようとするシンを引き留めるように、アイヴィーは彼の耳に口を寄せ、何事かをささやいた。
ライヴ中継を切らなかった全ての視聴者の視線は、アイヴィーの言葉に目を真ん丸にしていくシンに釘づけとなった。
シンはゆっくりとアイヴィーに向き直った。口がパクパク動いている。二人にしか聞こえない会話が、二言三言と続く。
シンはアイヴィーに何事か語りかけた。その顔はキラキラと輝いている。
彼は彼女をぎゅっと抱きしめ、そして画面の真ん中に、そっと押しやった。
あとは、お前から伝えてくれ。
今夜来てくれた、みんなに。
「えーとね。皆さんにもアタシから、ちょっとお知らせ。」
そう言ってアイヴィーは、シンがいると思われる方を向いてニコッと笑った。その顔は、ついさっきまで怒涛のライヴを織りなしていたのを忘れさせるような、慈愛に満ちて。
アイヴィーは、みんなに告げた。
「アタシ、妊娠したから。」
「うおー!」
「うおー!」
別画面で、ゴンちゃんとショージが同時に叫んだ。
ジャッキーは放心している。失神したかもしれない。
「というわけで、次のライヴはアタシの体調次第になっちゃうかもだけど!でもね、必ずまたやるよ。お腹の赤ちゃんに、パワーもらうからね。ちょっとだけ、待ってて。」
申し合わせたように、ゴン、ジャッキー、ショージが演奏を始めた。突然の展開にも、驚きの次は喜びの感情しか湧いてこない。
アイヴィーの新たな門出だ。こりゃ祝福しなきゃな。
「“ズギューン!”は、これからもアタシたちのやり方で、突き進んでいくよ。みんなも、毎日を全力でやりきって、悔いの無いようにね。またライヴハウスで再会しようね!」
そう言って、アイヴィーは言葉を切った。
そして、最後に力強く、ひと言。
「くたばれ、コロナ!」
ライヴ配信が終わった。
シンはアイヴィーを、そっと抱きしめた。アイヴィーと、まだ見ぬ我が子を。
大切な、二つの命。
「シン。黙ってて、ごめんね。話したら、ライヴできなくなっちゃうと思ってさ。」
「アイヴィー、体調は大丈夫か?いつもと変わりないか?」
「うん、大丈夫。ステージングは控えめにしたし、身体の調子が良ければ、歌うのは問題ないらしいよ。むしろ、ストレスためる方が良くないんだって。」
「そんなもんか。俺、よく分かんねえけど…。」
そう言いながら、シンはアイヴィーのお腹を優しく撫でた。まだ膨らみは感じられないけど、手のひらに鼓動が聞こえるような気がする。
「ビックリさせちゃったね。」
「ああ、まさかな…。全く気づかなかった。すまねえ。」
「アタシこそ…勝手に、ごめん。相談もしないで。」
「お前がすることに、俺が反対するわけがねえだろ。アイヴィーがいなきゃ、俺は今ごろどん底だ。どんなことだって受け入れるぜ。それに、俺たちの子供だなんてな…。」
言葉を続ける代わりに、シンは柔らかい笑みを浮かべた。それで、彼の思いは十分に伝わったよ。
「シンも言ってたでしょ、“未来を創る”って。アタシ、本当の未来を作らなきゃって思った。子供って、未来そのものじゃない?」
「ああ、それで最近あんなに…。」
「まあ、あの時は“そうなったらいいな”程度だったけどね。でも、この子にはアタシの気持ちが通じてくれたみたい。ちゃんと、ここに来てくれたもんね。」
スタジオの防音ドアがガンガンと鳴った。
二人が振り向くと、ガラス窓の向こうでゴンちゃんがサングラスを外し、拳を突き上げてガッツポーズを見せた。
アイヴィーとシンも、拳で応える。
部屋には入ろうとせず、ゴンちゃんはそのまま消えた。
祝福の抱擁は、すべて片づいた後でな。
「ちゃんとしなきゃ、いけねえな。籍とか何とか…俺はよく分からねえけど。」
「まあまあ、その辺はさ。」
アイヴィーはニカッと笑った。
「アタシたちらしく!で、いいじゃん?いつも通り毎日を全力で生きたら、後はなるようになるよ。まずは…。」
「どうする?」
「この子が生まれてくるまで、全力でがんばる!それだけだね。」
そう言いながら、アイヴィーはお腹を、ポン、ポン、ポン。
「男の子か女の子か、まだ分からないけどさ。これから楽しくやっていこうね。ママもパパも、楽しむことにかけては達人なんだからさ。」
シンは静かにギターを手に取り、アンプのボリュームを落として、即興で柔らかい調べを弾き始めた。
我が子への、いちばん最初のプレゼント。
その夜、配信を観たパンクス、DJ、仲間、友だち、オーディエンス、「ズギューン!」ファン、たまたまチェックしてくれた見知らぬ誰か。
全員に、ちょっとした奇跡が起きた。
みんな、これから先を気にすることなく、心から熟睡することができたんだ。
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