その1

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その1

「ダメだ。明日からの仕事、なくなっちまった。」 作業着姿で頭にタオルを巻いたままのシンは、帰宅と同時にひと言だけ言い残してバスルームに消えた。 “先を越された”と、アイヴィーは思った。 つい5分前に、1ヶ月後に予定されていたライヴが「中止になった」と連絡を受けたばかりだ。 マイナスにマイナスをかけると、プラス。 「ってことで、いいよね。」 独り言をつぶやいて、アイヴィーはシンのために冷蔵庫の缶ビールを冷凍庫に移動させる。 トレードマークのパーマを当てた赤い髪を簡単にまとめて、赤黒のボーダーTシャツにシンプルな黒のパンツ。普段着もよそ行きも大して変わりはしない。パンクは年中パンクだもん。 ここ数週間、明らかに独り言が増えているなあ。 アイヴィーの仕事はどこでもできるけど、最近は否応なしに在宅ワーク。おかげで苦手だった料理がちょっとだけ上達した。 服飾デザイナーがバンドをやっている。 バンドマンが服飾デザインをやっている。 この2つには、大きな違いがある。 つまり、優先順位はどちらにあるか。 「まずバンドありき」である以上、マジメに仕事をしていても、稼げる金額はたかが知れている。 さらに、アイヴィーのもう一つの収入源である「印税」も、ここへきて急激に落ち込む一方。カラオケ店が軒並み閉まっているんだから、彼女の歌も歌われようがない。 そこへ来て、左官職人であるシンが仕事にあぶれた。 一周回って、この状況に笑えてくる。 世界中がピンチを迎えているこの世の中で、アイヴィーとシンも例外なく試練を受けていた。 タオルで頭をガシガシと拭きながら、シンがバスルームから出てきた。 昔はよく上半身裸にジーンズ姿で、部屋の中をフラフラしていた。今は、ちょっぴり出てきたお腹を隠すように、バンドTシャツを着ていることが多い。それでもシャープな顔つき、鋭いけど優しい目は昔のまま。 「うまそうだな。」 テーブル上の湯気が立つ肉野菜炒めを見て、彼がポツンと言った。 ちょっとお金が入れば「飲みに行くぞ」と言うシンが、今は外食をガマンしている。そして毎日アイヴィーが作る料理を、「うまい、うまい」と言っては全て平らげる。 アイヴィーは自身の料理の技量が分かっているから、その言葉を本当にありがたく受け止めている。だから、せめてビールだけはいつもキンキンに冷やしておくんだ。 「今日も一日、お疲れ様でした!」 アイヴィーがそう言って、ビールグラスを持ち上げた。シンも黙って杯を合わせる。何はともあれ、今日も生き延びた。 世界には、今日を生きられなかった人々がたくさんいる…本当だったら死ぬ必要がなかった人々が。 だから、シンとアイヴィーは自分たちが「とても恵まれている」と感じている。 とはいえ、明日も生きていかないといけない。 そのためには、だ。 「ライヴ、どうなった?」 やや焦がしてしまった焼き魚をほじくりながら、シンから話を振ってくれた。嫌な話は、さっさと終わらせてしまうに限るからね。 「やっぱり延期だって。」 「まあ、仕方ねえな。」 シンのバンド「ニー・ストライク」も、アイヴィーのバンド「ズギューン!」も、これで先月からライヴ・スケジュールは真っ白だ。 どのみち、出られるとは思っていなかった。 ウイルスに支配されたこの世界で、ライヴハウスとバンドマンは否応なしに非難を受ける対象となっている。 それに関して言いたいことは山ほどある…本当に、山ほど。 でも、どうせエネルギーを向けるなら…反論よりもっと大事なことに、向けていきたいから。 自粛という忍耐を選んだバンドもたくさんいる。 可能性を求めてライヴを続けるバンドもまだいる。 どちらも間違っていない。正解なんか、誰にも分からない。 ただ一つ、変わらない思い。 くたばれ、ウイルス。
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