私の可愛いハエを殺したら消滅だ

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私の可愛いハエを殺したら消滅だ

この頃から大輔は教職を辞すことを考え始めたんだ。前任校からかなり危険な教師と思われていたからだよ。  大輔は新たに赴任した高校でも右翼的な発言で問題視されていたんだ。  大輔の入っていた来岩現正法の教えのメインは反共と動物愛護だったけど、それを除くとキリスト教の影響を受けた宗教であることが分かるんだ。あっちこっちに「イエス様」とか「大天使ミカエル」なんて出てくるからね。だけど聖書よりも教団の出版物を重要視していたんだ。  その出版物には聖書で見られる天使の名前や、昔の聖人君子の名が連らねられており、その人々が天上界からメッセージを送ってくるとされ、そして、そのメッセージを受け取るのが来岩峰子女史だったんだ。  その来岩峰子女史は大天使ミカエルからのメッセージを受け取り、信者に伝える「巫女」であるとともに、天上界へ帰ったら、このミカエルと結婚することが決まっているということになっていたんだ。  ミカエルは天使の一人に過ぎないが、この教団では大王とされ、従って来岩女史はミカエル大王妃と言うことになり、信者からは大王妃様と呼ばれていたんだ。  メインの教えに反共を掲げていたけど、ソ連の消滅以後は、共産主義者が電線を使ってS波ビーム(有害電磁波)を出し、大王妃先生や信者(正法者)を狙っていると言い始めたことは前に述べたよね。  そして、このS波から逃れるために教団はワゴン車数台でキャラバンを組んで、日本中を放浪し始めていたんだ。  大輔は、そのキャラバンに参加したかったんだ。しかし、それは同時に教師の職を投げ打つということだろう。教師なんかやりながらそんな活動はできないよ。そりゃ。  なかなか決心がつかなかったけど、もうこの頃には決心を固めつつあったんだ。  なぜって、世界が滅びるからなんだ。  聖書にある通り、この世の終わりが近づいていると、教団では教えていたんだ。先述したように地球と隕石との衝突だ。  しかし、正法者と来岩先生はUFOに助けられて逃れることができると言うんだ。  現代版の「ノアの箱舟」だ。  大輔は、その「箱舟」に乗り込みたかったんだ。  また、来岩現正法では、キャラバンに参加する「勇士」を募っていたんだ。参加した者は「箱舟」に乗れるだけではなく、死後の天上界での階層が高くなるんだ。  そして、大輔は教師になってから十年後に教師を辞めたんだ。この二校目の学校にいる時だった。  身も心も来岩現正法に捧げたというわけだな。  この頃、異様なキャラバン隊は島根県にいたんだ。それを大輔は機関誌から知ったんだ。そこで東京の本部へ電話を入れたんだ。  「あのー、キャラバンに加わりたいんですけど---」  「ああ、正法者の方ですか?それでは山陰本線の○○駅でお待ち下さい。ワゴン車が通りますから、お名前と会員コードを言って下さい」  こうして大輔は大阪駅から京都を経由して山陰本線に乗り、目的の駅へ行ったのさ。すると一目で分かるキャラバン隊が止まっていたんだな。何台もの窓にグルグルマークをつけたワゴン車が止まっていた。さあ、民族大移動の開始だ。           *  「兵庫・大阪の集いから来た川村です。よろしくお願いします。」  簡単な自己紹介をすませた後、大輔はキャラバン隊の実質的責任者である吉田氏の下へ通された。吉田氏は前から三番目のワゴン車(3号車)にいた。中から吉田氏が出てくる。全身白ずくめの格好をしている。そして大輔に言ったんだ。  「キャラバンへの参加、有難うございます。ところで、このキャラバンに参加した理由をお聞かせ下さい」  「勿論、来岩先生を共産主義者の悪魔の手から守るためです」  「これは頼もしい。では、現正法の集いでどんなことをなさっていたかお聞かせ下さい」  「はい。集いでは二回講師をやらせて頂きました」  「どんな内容ですか?」  「私は教師をやっていましたので、一つは、日教組に支配された学校の恐怖についてお話しました。もう一回は、マルクス主義の矛盾について説明させてもらいました」  「元教師ですか?日教組との戦いで大変だったでしょう。でも、これからがもっと大変ですよ。先ずは来岩先生に会って下さい。あ、それから来岩先生ではなくて、ここでは大王妃様とお呼び下さい」  こうして、大輔は「ミカエル大王妃」の乗っているという車まで吉田氏に案内された。車は二号車で、中には台所用品一式とテレビが備え付けられていたんだ。吉田氏はそこで横になっていた「お婆さん」に話しかける。  「大王妃様。新しいキャラバン隊の隊員が来ました。元教師だそうです」  「そうですか。まあこちらへ」  大王妃様は横になってテレビを視ていたようだったけど、身を起してこちらをチラリと振り向いたんだ。  思っていたより年齢がいった「お婆さん」だった。年の頃は七十代かな?  機関誌などに写真が載っていたけど、どれも若い時の写真だったようで、その美しさは微塵も感じられなかったんだ。  「よくいらっしゃいました。天上界のために悪い共産主義者と戦って下さい。ただし、動物を虐めたり、キャラバンから抜けようとしたらどうなるかは分かっていますね?」  「はい。消滅ですよね」  「その通りです。あるいは天上界の地位の異動があります。」  「消滅」というのは最も厳しい神の刑罰であり、魂を消されてしまうんだ。こんな教義がこの宗教にはあったんです。おー怖。    その後、大輔はもう一度吉田氏に呼び出されたんだ。  「これはS波から身を守るための防護服です。これを着用して下さい。それからこれは白い長靴。これはマスク。これは頭にかぶるS波防止用のものです。  なぜ白装束姿になるのかご存じですね」  「はい。S波から身を守るためです」  「そうです。それともう一つ、我々の顔がマスコミなどに知られないようにです」  「心得ています」  まさに「心得て」いたんだ。そりゃ機関誌を全部読んで、集いでは講師までやっていたんだからこの教団のことは全て頭に入っている。  こうして大輔は来岩現正法の作った「電磁波研究所」の一員となったんだ。  大輔に与えられた仕事は「大王妃様」のお弁当の買い出しや木々の伐採だったんだよ。  時々ワゴン車の列を妨害する木を切り倒しながら山道を列をなして移動するのだ。なぜ山道を行くのかって? その理由はS波から「大王妃様」と自分達を守るためだよ。とにかく「電磁波」を出している「電柱」を避けようとしていたんだ。  大輔にはキャラバンが何処を移動しているるのか全く分からなかったんだ。カーナビも見せてもらえなかったから。カーナビを見るのは運転者の特権だったんだ。スパイ(カンニング)から身を守るためだ。山道を行くから車酔いで何度も吐きそうになったよ。  恐らく、島根県と広島県の県境あたりにいるんだろう。  キャラバンは山道をどんどん広島県へ向けて進んで行ったんだ。    途中に送電線の鉄塔などがあると大王妃様が苦しみ始める。そうなるとさあ大変。  「ここはいかん。S波が出ている。痴漢攻撃をしてくる。」なぜか「痴漢攻撃」って言うんだよ。でも、こんなお婆さんに痴漢をはたらく人っているのかねえ?  そう大王妃様が告げると、また移動だ。  大体、電線や鉄塔のないところなんか日本中探してもあるわけがないじゃないか。このまま北海道まででも行くつもりだろうか?  大輔は熱心な信者であったが、ふと、そう思う時もあったんだ。 キャラバンに参加しているのは屈強な男だけではなかったよ。女性も幾人か参加していたんだ。  主に大王妃様の「下の世話」をするのがその役目だったんだ。  どうも大王妃様は時々「お漏らしになる」らしいんだ。そして、それを共産主義者の「失禁攻撃」と呼んでいた。         *  ある日のことだ。若い「正法者」がキャラバンに参加した。活気にみなぎっているが、来岩現正法の詳しい教義をあまり知らないようだった。  このような人達のためにキャラバンのメンバーは集まって「現正法の集い」というものを開催していたんだ。この「集い」は原則として月一回開かれることになっていたんだ。現世(うつしよ)にいる時と同じだ。  その若い正法者の名は村木と言うんだ。  力仕事などは喜んでやるのだが、もう少し勉強した方がいいのではないかと大輔は思うこともしばしばあったんだ。  そして、その村木が大変なことをやらかしたのさ。    その日、大輔と村木は来岩大王妃様の車に乗っていたんだ。食事の世話をするためだよ。大輔は木々の伐採や弁当の買い出し以外にも「大王妃様のお世話」までやらされていたんだ。  そこへ、一匹の蠅が飛んできたんだ。「ハエ」だよ。犬や猫じゃなくて「ハエ」だよ。  村木はその蠅を団扇で払い、足で踏みつけて殺してしまったんだ。  しつこく言うけど「蠅」だよ。  ところが、この蠅は大王妃様が名前を付けて大事に飼っていた蠅だったんだ。  「おい、村木。今何をした?」  大王妃様が身を起こしたんだ。  「今お前が殺したのは、もしかしたら良子ちゃんじゃないのか?」  「な、な、何のことですか?」  大輔が耳打ちをする。  「大王妃様はなあ、蠅をお飼いになっているんや。この蠅が義男、この蠅が良助、この蠅が安子。知らなかったのか?」  「たかが蠅じゃないですか?」  この言葉が大王妃様の怒りの火に油を注ぐことになった。  大王妃様は仁王のような憤怒の表情で村木を睨み、言ったんだ。  「たかが蠅だと?この馬鹿野郎が!良子ちゃんをたかが蠅だと?」  大変なことになった。やっとことの重大さが分かったのか、村木は怯えながら大王妃様に言ったんだ。そう。ここは謝るしかない。  「申し訳ありません。大王妃様の大切な蠅だとは知らずに殺してしまいました」  「処分は追ってする。お前は天上界から永久追放だ」  「そんな?私は仕事も妻も捨てて大王妃様に従って参りました。それが追放だなんて、私はどこへ行ったらいいんでしょうか?」  「そんなものお前が自分で決めろ」  大王妃様は冷たく突き放したんだ。  何日かしてから携帯のメールリンクに一報が入ったんだ。今のようにラインなんかなかったからメールリンクで報告が入るんだ。でも、携帯って電磁波を出しているのでは---。  「村木芳樹。この者は私の飼っていた大切な良子ちゃんを無残にも殺した。よって消滅。並びに天上界永久追放に処する。キャラバン隊に加わる資格もなし」  大輔は村木のことが心配になって四号車に乗っている村木の様子を見に行ったんだ。すると、村木は携帯の画面を眺めたまましくしく泣いていた。大声の男泣きじゃないよ。しくしくと嗚咽しながら泣いていたんだ。  「たかが蠅一匹殺しただけじゃないか?蠅はペットか?ただの害虫じゃないか?みんな狂ってる。来岩先生も正法者もみんな狂ってる」  その後、村木の姿はキャラバンから消えた。彼がどうなったかは誰も知らないのでした。                    *  その後、キャラバンは四国へ入り、高速を通って淡路島を抜けて再び本州へ入り、名古屋方面へ進んだんだ。一体どこまで行くんだ?  そして右往左往しながら岐阜県に入ったようだった。三号車を運転している後藤が「岐阜に入ったぞ」と言ったので分かったんだよ。  その頃、大王妃様から重大な発表があったんだ。  即ち、もうすぐ地球は滅びるので来岩女史や正法者を助けるためにUFOの大艦隊が来る。その日が七月十日と発表されたんだ。  しかし、この頃にはキャラバンの存在がマスコミに知れ渡っていたんだ。  連日報道陣が押し寄せる騒ぎとなっちゃったんだ。  「オウムの再来か。白装束集団、岐阜県の山中を移動中」  とテレビも新聞も大々的に取り上げたんだ。  大輔は思ったんだ。  「馬鹿な連中だ。あのノアの洪水の時もノアの親族八人以外は誰も助からなかったのだ。お前らは滅びるつもりか?」  ところが、彼ら「正法者」や来岩大王妃様を警察へしょっ引く理由がどこにもないんだなあ、これが。  あるとするならば、道路を占拠したのでせいぜい道路交通法違反くらいだ。  しかしマスコミというのはどうしてこんなに大騒ぎするのだ。オウムのように何かしたのなら騒いで当然だけど、ただ白装束が不気味だというので騒がれたら四国のお遍路さんでも騒がなくてはいけないじゃないか?  さて、このような状況になっても大輔はまだ来岩現正法を信じていたんだ。  そうこうするうちにキャラバンは岐阜県を抜けて福井県に入ったんだ。    「ここをUFOの着陸地点とする。お迎えの準備をすること」  大王妃様の命令が発せられたんだ。とうとうキャラバン隊は停止した。相当な山の中だ。近所には家一軒もない。  「さあ、忙しくなるぞ」  大輔は来たる七月十日を思って一生懸命木々を伐採したんだ。  マスコミも来ているが、どうせ左翼の偏向マスコミだろう。そんなもの無視無視。  実際に、吉田氏からマスコミは無視するようにとの通達が出ていたんだ。  そんな中でまたしても事件が起こったんだ。  夏休みを取ってキャラバンに参加していた大学の准教授が熱中症で倒れてしまったんだ。  「それにしても、この宗教には高学歴の人間が多いのはなぜだろうか?大学の先生までいるんだ」  大輔は思った。  この大学の先生は結局亡くなってしまうんだ。  「来岩現正法に身をささげ、亡くなったのだ。天上界では神界か菩薩界か?」  大輔はそう考えたのさ。  この大学の先生の親は来岩大王妃様を訴えなかった。  「息子が信じた宗教だから」  という理由からだよ。  しかし、来岩大王妃様からの通達は意外なものだったんだ。   「田村弘樹、右の者、正法者に多大なる迷惑をかけた故に消滅とする」    この頃から大輔は来岩現正法に疑問を抱き始めたんだ。もう遅いって。  「最初の頃は納得出来た。言ってることもまともであった。しかし、こうも消滅を多用するのは---でも、UFOが七月十日には来てくれて我々を救って下さるのだ。それまでの辛抱だ」  この「消滅」というのは余りにも厳しい裁きなので、滅多に使われることはなかったんだよ。しかし、キャラバン隊による移動が始まった頃より大王妃様の口から頻繁に発せられるようになったんだ。その中には有名な女性政治家や、著名な女優などもいたんだ。この女優などは、「飼っていた小鳥が蛇に食べられるのを助けなかった」という理由だけで「消滅」宣告を受けたんだ。  実は、大輔が来岩現正法にここまで従ってきた理由の一つには「消滅が怖かったから」というのもあったんだ。しかし、そのことはひた隠しにしていたんだ。  そして七月十日。待ちに待ったUFO到着の日だ。  「おーい、UFOさん。早く来て。僕達はここにいるよ」と大輔は何度も空に向かって呼びかけたんだ。見ると他の白装束の連中も空に向かって手を振っている。さあ、UFOはどこに現れるんだ?  結局UFOは現れなかった。  このことに関しても来岩大王妃様から発表があったんだ。  「UFOが我々を助けに来る予定だったが、隕石に衝突して粉々になった。正法者はここで待つこと」 「箱舟」は来ないのだ。  「しかし、ここまで大王妃様に従ったのだ。死後は天上界入り確実だ」  この期に及んでも大輔は、まだ来岩峰子を信じていたんだねえ。本当の馬鹿だ。  そして十日後、大王妃様の容態が急変したんだ。元々全身癌だったんだよ。死期が近いことも分かっていたんだ。しかし、こんなにも早く大王妃様に死が訪れるとは---。  「大王妃様」は病院の中で静かに息を引き取ったんだ。  間もなくキャラバンは解散した。  「大王妃様もお亡くなりになったのでここで解散です。皆さんご苦労様でした」これが吉田氏の最後の言葉だったんだ。
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