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第二十九話
「全く、こっちも暇じゃないってのに何やってるんだか」
「…」
もうとっくに来てもいい時刻だというのに毅尚は現れず、佐知は苛立ちをあらわにする。
「私、様子見に行って…」
「おまえはそういうことしなくていいんだよ。私が行くからおとなしく座って待ってな」
お凛は仕方なく頷き、四季の間から出ていく佐知を見送った。
(どうしたんだろう?何かあったのかな)
今日は先日に続き、引っ込み禿から新造花里となったお凛の絵も描くと聞いていたので、すっぽかすことはさすがにないと思うが、ここまで遅いと心配になる。だが、間も無く廊下から佐知と毅尚の会話が聞こえ、騒々しい足音と共に2人が入ってきた。
「遅れて申し訳ありません!」
お凛は毅尚が来てくれて安心したが、その顔色はこの間会った時よりも明らかに悪く、お凛は思わず尋ねる。
「体調でも悪いんですか?」
「え?いや、全然元気ですよ。すいません、吉原慣れてないから道に迷ってしまって…」
首を横に振り応える毅尚の、無理やり作ったような愛想笑いは痛々しく不自然だった。しかし、本人が否定しているのにこれ以上聞くわけにもいかない。
「では先生、私は外に出ていますので、花里の絵の続きとお稽古をよろしくお願いいたします」
二人の会話を黙って聞いていた佐知が、先程まで文句を言っていたとは思えないほど恭しく毅尚に頭を下げて部屋から出て行く。毅尚はこの間と同じく、小さな箪笥のような形をした絵具箱から画材道具一式を取り出し、それじゃあはじめようかとお凛を促した。
「この間と同じ角度で、もつ一度襖絵の前に立ってくれるかな?着物の柄や見え方を確認したくて」
「はい」
「ごめんね、すぐ終わるから」
そう言って、お凛を描き始めた毅尚の目は異常なほど瞬きが多く、筆を持つ指は時折小刻みに震えている。
「毅尚さん、お茶でも飲んで少し休んでから描き始めたらどうですか?」
「あ…いや」
どう見ても尋常ではない毅尚の様子に、暍病にでもなったのかと心配になったお凛は、毅尚が何か言い終わらぬうちに廊下に出ると、見張りとして待っている佐知に水かお茶を持ってきて欲しいと頼んだ。
「申し訳ありません。本当に大丈夫ですから」
「いえ、どう見ても大丈夫じゃないですから、何かあったんですか?」
「いや、多分、最近寝てなかったから、少し体調が悪くなったのかな…」
「失礼致します」
毅尚がお凛から目をそらし、曖昧な言葉で応えたその時、佐知があっという間に、お盆に茶菓子とお茶を持って戻ってくる。
「先生のために用意していたのですが、すぐにお出しせず気がきかなくて申し訳ありません」
「いえいえそんな」
佐知に恐縮しながらも、毅尚は出されたお茶を一口啜り礼を言う。
「ありがとうございます。お茶を飲んだらだいぶ落ち着きました。花里さんも、どうかご心配なさらないでください。早く絵の続き終わらせますので」
毅尚の言葉を受け、佐知は会釈して出て行き、お凛は腑に落ちない気持ちを抱えながらも、再び襖絵の前に立ち、毅尚の指示に従った。
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