第三話

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「お凛、おまえ、昨日の道中はちゃんとしてたらしいな。馬鹿なお前も、やっとここから逃げるのは無理だと気付いたか。言っとくがな、前の道中でおまえがやったことは、花魁に殺されても文句は言えねえくらいのことだったんだ!佳乃花魁だから許してくれたんだぞ、そのことはちゃんと肝に銘じとけ!」  源一郎はお凛を睨みつけ、いつものドスのきいた声で凄んだが、お凛も負けじと源一郎を睨みかえす。この廓で源一郎を睨み返す女など、お凛くらいだろう。梅はそんな二人をおろおろした様子で見守っている。と、不意にお凛が源一郎に向かってにやりと微笑んできた。 「なんだお前急に笑って、気持ち悪いな」 「ふん、なんとでも言えばいいさ。あっちはもうすぐここから出て行くんだからね」  妙に自信ありげな言い方に、源一郎は怒るどころか逆に心配になる。 「大丈夫かお前、折檻されすぎて頭イかれちまったんじゃねえか?」 「違う!梅ちゃんと約束したんだよ!梅ちゃんの父ちゃんと母ちゃんが迎えに来た時、あっちも一緒に連れてってくれるって」 「はあ?梅の両親が迎にくるだと?誰がそんなこと言ったんだ」 「おいらの母ちゃんが言ったんだよ、父ちゃんの病気が治ったら一緒に迎えに行くって、だからそれまで辛抱していてくれって」  梅の屈託ない言葉を聞いて、源一郎は思わず顔を歪める。梅の両親は、娘を女衒に売るとはどういうことなのか理解していたのだろうか?   女衒に売られ、吉原に買われた女は、その時から多くの借金を背負うことになる。今お凛達が着ている着物、食事、調度品、これらのお金を負担しているのは、花魁の佳乃でありこの見世だ。禿の頃からかかったお金は、遊女になったらそのぶんだけ働いて見世に返す。  実際その費用は莫大で、ここから出るには、年季を終えるまで働き続けるか、客に身請けしてもらう以外方法はない。しかし、そんな大金を払って遊女を身請けできる男などそうそういるはずもなく  そのため吉原では、恋仲になった男と心中する者や、駆け落ちしようとする者が後を絶たなかったが、吉原の見張はきつく、駆け落ちは見つかって捕まれば、男にも女にも重い罰が待っていた。一度吉原に売られた女に、ここを出ていく自由などないのだ。 「梅、親に何を言われたか知らねえが、お前もお凛もここから出て行くのは無理だ」 「え?」 「おめえらはな、親に捨てられてここへ売られたんだ。女衒へ売ったってことはな、もう二度と戻ってくるなってことなんだよ」  酷なことを言っていると自覚していたが、源一郎は言葉を止めない。淡い夢は捨てさせ、現実を知らせるのが自分の役目だ。 「考えてもみろ、もし本当にお前らのことをかわいいと思ってたら、赤の他人に子供を売り渡すと思うか?だいたいおめえの親は、おまえがどこに連れていかれるのか聞いてたか?場所もわからないのに、迎にこれるわけねえだろう!」 「江戸だって言ってたもん!」  梅は源一郎の言ってる言葉を受け入れまいと、今にも泣きそうになりながら訴える。 「江戸のどこだよ?江戸っていったって広いんだ、おまえがいる場所なんてわかるはずがない。いいかよく聞け、おまえは親に売られたんだ、売られたってことは捨てられたと同じことだ。迎に行くと言ったのは、嫌がるおまえを説得するための嘘なんだよ。 恨むならおめえを売った親を恨むんだな。こっちは親がいらねえと言っておまえを差し出してきたから買ってやったまでだ」  源一郎の容赦ない言葉に、最初に泣き出したのは意外にもお凛だった。今までどんなひどい折檻を受けても、お凛は決して泣かなかった。そのお凛が、顔を抑えてその場にしゃがみこむと、わんわん声を出して泣き出したのだ。  お凛がこれだけ源一郎の言葉に傷つき泣いているのだから、実際親に売られた梅はもっと大泣きするだろうと思い、源一郎は梅を見やる。  しかし、梅は泣いていなかった。それどころか、今まで見たこともないようなきつい表情で源一郎を睨みつけてくる。 「父ちゃんと母ちゃんは嘘つきなんかじゃない!捨てられてなんていない!絶対に迎えに行くって言ってくれた!約束してくれた!」 「だからそれは…」 「もし場所がわからなくて迎えにこれなくても、おいらは恨んだりなんかしない!自分で会いに行く!佳乃姉さんみたいな立派な花魁になって、おいらが父ちゃんや母ちゃん達に会いにいくんだ!」  言いながら、梅の瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。梅がこんなにも激しい口調で源一郎に歯向かってきたのは初めてのことだ。 源一郎は呆然と梅を見つめ、お凛も驚き梅を見上げている。  梅の言っている言葉は、何もわかっていない子供が言う絵空事でしかない。それでも、零る涙を拭いもせずに源一郎を睨みつけるその目には、ただの戯言と笑うことができないような力があった。 (こいつは驚いた。お凛が気が強いのは知っていたが、梅の気の強さも負けてねえ。おどおどした、素直なだけが取り柄な子供かと思っていたがな)  気がつくと、源一郎は自然と口元を綻ばせ笑みを浮かべていた。 「たいした心意気だな。言っとくが、花魁ってのは美しさはもちろん、学もあって華もあって、意地と張りがなきゃつとまらねんだぜ。美しさも学もないおまえが、一体どうやってなろうってんだ?」  源一郎の正論に、梅は途端に威勢の良さを失う。 「綺麗じゃないのはわかってるよ…でも、なってみせる…」  さっきまでの勢いはどこへやら、梅は下を向いて俯くと、小さな声で自信なさげに呟いた。 「おいおいどうした?花魁になって親を迎えに行くとかぬかしてたくせに、もうあきらめたのか?」 「ち…違うよ…」  源一郎は、くってかかろうとする梅の小さい頭をひょいとつかむと、わざと小馬鹿にしたような口調で言い放つ。 「ま、夢見るのは自由だ。せいぜい頑張るこったな」  梅は悔しそうな顔で源一郎を見上げたが、適わないと諦めたのか、そのままプイっと悔しそうに目をそらす。   幼い梅が源一郎に対して反抗的な態度を見せたのは、この日が初めてだった。そして、思えばこの時こそが、後の片鱗を垣間見た最初の出来事だったのかもしれない。
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