第五十話

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第五十話

「全くなんだよ話しってのは、今日は患者も少ないし、折角とっとと仕事切り上げて遊びに来たってのに」 「ごめん公ちゃん、でも丁度良かった」  佐知に呼び出され不機嫌な様子で入ってきた公孝に、源一郎は素直に謝る。 「実は公ちゃんに頼みたいことがあって…」  源一郎の話す内容を、暫く黙って聞いていた公孝は、やがて深くため息をつき返答した。 「いや、もちろん診るのはかまわないが、今日処置まではできないぞ」 「ああ、だったら明日でもいい、よろしく頼む」  公孝は渋々ながら、分かったよと頷く。 「その代わり、ちゃんと本人納得させてから連れてきてくれよ、暴れたり泣かれたりするのはごめんだからな」 「…ああ、善処はする。それからこの事は俺の母親には内緒にしといてくれ。知ったら梅が何されるかわかったもんじゃない」 「わかってる。ところでそのお吉さんはどこ行ってるんだ?」 「芝居小屋だ、今日は佐知と色々深く相談したいことがあってな、桟敷席を買ってお袋が気に入ってる女中や若い衆と出かけてもらってたんだ、役者と花火見物や芝居茶屋のもてなしもついてる高い席だが背に腹は変えられない」  表向きは母に元気になって欲しいという名目だったが、出かけさせておいて良かった。お吉がいる時なら、玉楼でこの話しをすることはできなかっただろう。 「まあこう言っちゃなんだがお前の母親本当に昔から鬼だからな、お前はお吉さんに似なくて良かったよ」 「…どうだかな」  公孝の言葉に、源一郎は首を横にふる。自分も、馴染みの少ない遊女を格下の見世に売り払い女を商売道具として扱っている、同じ穴の狢にすぎない。 「ところでその梅の相手ってのはわかったのか?」 「証拠があるわけではないんだが、おそらく状況的に斉藤海だったと俺たちは踏んでる」 「ああ、あいつかあ!あの男評判悪かったもんな、名門一族に必ず1人はいる不肖の息子って奴だ。でも、だったらもう心配することねえよ、あの男が吉原へくる事は暫くないだろうからな」 「何か知ってるのか?」 「なんだよおまえ、楼主たるもの吉原に来てる客や間夫の情報はしっかり把握してなきゃ駄目だぞ。情報ってのは時に金より…」 「わかったから意地悪しないで教えてくれよ公ちゃん!」  公孝は仕方ないなと言いつつ、どこか得意げに話しはじめた。 「斎藤海がああ見えて名門道場の息子だって事はおまえもさすがに知ってただろう?でもあれは妾腹の子だから、道場を継ぐのは当然次男の慎之介だろうと言われてた。ところがなんと、あの江戸幕府の老中間部忠義の娘で、絶世の美女と噂の華子様が斎藤海に惚れちまって、海が文武館の次期当主になったんだよ!」 「惚れたから当主になる?」 「あーもうだから、華子様と斎藤海が夫婦になったってこと!」 「…」 「男前ってのは得だよな、散々遊び倒してたくせに、権力者の娘に惚れられてあっさり当主の座まで手に入れちまうんだから、しかもちょっとやそっとの権力者じゃない、江戸幕府老中間部忠義の娘だぜ?」  公孝の話しを聞きながら、源一郎は考えを巡らせる。梅はすっとぼけ絶対に斎藤海の名前は出さないだろうが、ならばいっそのことこちらから名前を出して、他の女のものになったと言ってしまえば早いかもしれない。そうすれば梅も納得し、赤子を流すことに抵抗し逃げだすことはないはずだ。 「まあ間部忠義の娘といっても、間部様の正妻が華子様を間部家の子にする事は絶対に許さなかったから、結局母方の実家料理屋瑞乃の養女になっていて身分は商人だけどな。 でも、料理屋は華子様の母親の兄が継いでるし、華子様も名門斎藤家に嫁いだし、料理屋瑞乃は娘が間部忠義の妾になって万々歳だったってことになるんじゃないか?」 源一郎が梅にどう伝えるか思案している間にも、公孝の話しは止まらない。 「しかしなんと言ったって一番得したの華子様に惚れられた斎藤海だよ。今日はその瑞乃に両家の家族が集まって花火見物と会食らしい。 正妻様も、妾腹の子とはいえさすがに名門斎藤家の妻になった華子様を無視し続けるわけにもいかなくなったんだろうな。最も、腹の底では遊女の子と料理屋の娘、卑しい身分の者同士お似合いだと思っているともっぱらな噂だぜ」  一体誰が忠義の奥方の心情まで実しやかに話しているのか、公孝の情報通ぶりにはいつも感心してしまう。中条流の患者の中には、大奥や身分の高い女性も多いと聞くが、だからこそ公孝はあらゆる世情に詳しいのかもしれない。    父虎吉はよく、吉原の楼主たるもの世情を知らぬは怠慢の極みと言っていた。源一郎はつい、噂話など自分の目で見たわけでもないのにくだら無いと思ってしまうのだが、くだらぬ噂話の中にある一欠片の真実を掬い取り、上手く立ち回る術が商売人は必要らしい。なんにしても色々な意味で、中条流の医師公孝との縁は、自分や玉楼にとって深く大事なものなのだ。 「あ、それからお前、今日蔦谷様が玉楼の遊女達を花火見物に連れてくるって江戸中で噂になってるけど、多分今回無理だと思うぜ」 「え?」  と、突然思ってもいなかった事を言われ、源一郎は声を上げる。江戸中に噂を広めて注目させるのは蔦谷の常套手段だが、無理だなどという話しはまだ蔦谷から一言も聞いていない。   「どういうことだ?」 「今夜は間部家斎藤家の両家で花火見物と会食、その上水戸藩尾張藩の大名達も来る。そんな日に玉楼の遊女達も花火見物にくるという噂が忠義様の本妻の耳に入って、そこから老中や大奥の奥方様達にも一気に伝わったらしい。 おまえは知らねえかもしれないが、その昔家光公の時代、評定所が花魁達を給仕として招いていたのに禁止になったのは、大奥の女共が大反対したからなんだぜ。今回も、商人が遊女達を我が物顔で侍らせてくるなんてもっての他と蔦谷様は呼び出しくらってるらしい。大奥から抗議が出たら幕府も無視はできないからな」  公孝の話しを黙って聞いていた源一郎は深く考えこむ。今夜は総仕舞だと蔦屋から金は既に貰っており、あの粋な蔦谷が中止にするから返せと言ってくる事はまずありえない。しかし公孝の話が本当なら、花火見物は中止になる可能性の方が高いだろう。無意識に深刻な表情になっている源一郎に気づいた公孝が、慰めるように肩を叩いてくる。 「まあそう落ち込むな。忠義様は遊び心も分かる方だから、風紀が乱れると一辺倒に切り捨てる事はないと思うぞ。玉楼総出の花火見物は無理かもしれないが、蔦谷様も粘り強く交渉して上手いこと折り合いつけてくれるさ」  公孝の言葉に頷きつつも、源一郎は正直、少しホッともしていた。どんなに見張りを強化したところで、女という者が、時になりふり構わぬ行動する危うさと大胆さを持ち合わせている事を、源一郎は嫌というほど知っている。 (楽しみにしていた遊女達には悪いがかえってよかった、それより、この後梅にどう詰めていくかだな、逃げたり死なれたりするのはごめんだ)  自然に浮かんだ心の声に、人としての情が麻痺していくのを自覚しながら、源一郎はもうそれに抗おうとはしなかった。
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