第五十一話

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第五十一話

 玉楼の台所は毎日大忙しだ。今夜は玉楼総出で花火見物へ行くなどという話しもあったが、飯炊場で働いている人間にそんな事は関係ない。昼見世後、夕七つから夜見世に備え昼食をとる遊女達のまかないを全員分作るのは一苦労であり、下女や奉公人達は皆忙しなく動きまわっている。 「それにしたってひどい話しじゃないか。せっかく玉楼の遊女総出って話しだったのに、結局花火見物で外に出れるのは紫花魁とまだ客もとったことのない禿や新造だけなんて!」 「まったくだよ、紫花魁はまだしも、私らあっての玉楼なのに、半人前にもなってない子達が行けるなんておかしいだろう?ねえ松、あんたもそう思わないかい?」 「え?」  廊下に置かれた飯台で、一口一口噛み締めるように白飯を食べていた松は、姉女郎達の話しをまともに聞いておらず、つい気の抜けた返事をしてしまう。  松はもうすぐ13歳になる玉楼の禿の一人だ。売られてきたばかりの頃は中々の器量良しで、11の時、既に花魁になるべく育てられていた一つ年上の伊都と同じ引込み禿となったが、食べ物への執着が異常に強く食欲旺盛な松は、いつの間にやらぽっちゃりと育ちすぎ、お吉から、これ以上太ったら玉楼から追い出してやると、ここ数日、昼飯以外食べることを禁じられていた。昼食は松にとって唯一大好きな白飯が食べられる時間であり、周りに気を取られてる余裕などなかったのだ。 「え?じゃないよ全く、食べ物にしか興味ないあんたが花火見物なんて、猫に小判もいいところだよ」 「花火見物は姉さん達が行って私達禿は留守番じゃなかったんですか?」 「あんた、さっきからなんにも話し聞いてなかったのかい?大勢の遊女が花火見物来るなんて江戸の風紀が乱れるってんで私らは行けなくなったんだよ!」 「お前たちいいかげんにしな!」  と、いつの間にやら松達のいる飯台の前に立っていた佐知が、姉女郎達を厳しい声で叱責する。 「幕府からお達しがきたんだから仕方ないだろう?蔦谷様だってあんた達のために一生懸命交渉してくださったんだ。 花火見物には行けなくなったが、玉楼の遊女達を労いたいとあんたら全員総揚げして夜には宴席を設けてくださった。おかげで今日は客もとらずゆっくりできるんだからそれだけでも充分有難いと思いな!」 「宴席!本当ですか!」  佐知の言葉に、喜びいさんだのは松だった。総揚げで宴席ということは、普段滅多に食べられない豪勢な料理を、気兼ねなく好きなだけ食べられるという事かもしれない。 「いや、あんたは花火見物だけ。宴席には出すなとお吉さんからのお達しだ。蔦谷様は元々紫花魁を中心に、花火を背景にした遊女達の絵を絵師に描かせたかったんだから、代わりにあんた達がしっかり役目を果たしてきな」 「…そんな」 落ち込む松に、佐知は呆れたようにため息をつく。 「全くあんたは、せっかく器量良しで引込みになれたってのにまるっきり色気より食い気だねえ。肉付きのいい女を好む客も沢山いるが丸々太った花魁の道中なんて見たことないだろう?あんたは最近確かに少し太り過ぎだ、少しは伊都を見習いな」 「はい」  表向きは素直に返事をしながらも、松は、食べるのを我慢して花魁を目指すくらいなら、引込み禿などにならなくて良かったと心の中で反論する。だが、貧しい農村でひもじい暮らしをしてきた松にとって最も恐ろしいのはここを追い出されることだ。例え朝食抜きにされても、本当の飢えを経験したことのある松からすれば、白飯を食べさせてもらえるだけここは極楽なのだ。 「昼食がすんだら花火見物の準備をするから、おまえもあとで紫花魁の部屋に行くんだよ」 「わかりんした」  松の返事に佐知が頷き去って行くと、姉女郎達は先程よりも小声で再び話し始める。 「でもさ松、あんたそんなに花火見物に興味ないなら、環と変わってあげれたら良かったのにね」 「え?」  内緒話でもするように囁いてきた姉女郎が、ほら見てごらんと顎で示す方を見やると、留袖新造の環が泣きくずれ、周りに慰められている姿があった。 「どうかしたんですか?」 「多分ありゃ、花火見物の時男としけこむ約束でもしてたんだろうね、見るからに落胆して、可哀想だったらありゃしないよ」  言葉と裏腹に、大して同情している風でもない姉女郎に、松は神妙な表情で頷いてみせる。留袖新造は、引込み禿から振袖新造になる者と違い早くから客をとっており、中でも売れっ子の環は、新造とはいえ一人前の姉女郎達にひけをとらない風格があった。そんな環が泣いている姿を見て、松は、なるべく近寄らないようにしておこうと心に決める。  環は目上の者には愛想がよく、姉女郎達にも可愛いがられているが、目下の者や気の弱い者には当たりが強く意地が悪い。皆の憧れで、誰に対しても優しかったお凛がいなくなってからは特にその態度の落差はひどくなり、松は密かに環を怖れていたのだ。 「それじゃあわっちはこれで」  皆より早く食べ終わった松は、姉女郎達との会話から逃げるように抜け出し、佐知に言われた通り紫花魁の部屋へと向かった。 (それにしても、いったいいつまで昼飯しか食べられないんだろう?)  廊下を歩きながら、松は一人腹をさすりため息をつく。ここ数日、一日一食しか食べさせてもらえていないからか、ついさっき昼飯を食べたばかりだというのに、松の頭は食べ物のことでいっぱいだ。  どれだけ我慢すればいいのか考えているうちに紫花魁の部屋の前に着き中へ入ると、すでに伊都が先に来ていて、紫花魁と何やら楽しげに話していた。  紫花魁の前には、自分達が食べているものとは明らかに違う、台屋で注文したのであろう立派な膳が置かれている。紫のお気に入りである伊都は、部屋に誘われ共に食事をすることも多く、あの美味しそうな料理を伊都も一緒に食べてるのかと思うと羨ましくて仕方がない。 (いいなあ、伊都ちゃんは…) 松が無意識に伊都を見つめていると、その視線に気づいた伊都がふと顔を松の方へ向けたが、すぐに興味なさげに目をそらす。  伊都とは、幼い頃は年も近く仲が良かったのだが、1年ほど前に、あんた見てると苛苛すると言われて以来、ほとんど会話をすることもなくなってしまっていた。昔からしっかり者でシャキシャキしている伊都からしたら、自分のような人間は鈍臭く感じるのだろう。 「ああ松、丁度いいところにきた、この膳を台所に下げてきておくれ」 「わかりんした」  紫に言われ、松は膳を手に持とうと二人の前に屈み込む。すると、紫花魁の膳のお椀に、美味しそうな筍の煮物が手付かずで残っているのが見え、松は思わず生唾を飲み込んだ。  紫花魁は筍の歯触りが苦手らしく、筍が入っていると大体残してしまうのだが、勿論だからといって、紫花魁が食べろと言ってるわけでもないのに、禿が勝手に食べていいはずもない。 「そういえば松、お前、これ以上太りんせんように女将さんに昼飯だけにされてるんだってな。肉付きがいいのはいいがほどほどにな」  松の心を知ってか知らずが、呑気な声でそう言ってくる紫に、松は愛想笑いを浮かべ頷き、そのまま膳を持って廊下へと出て行く。襖を閉めるため一旦膳を廊下に置いた松は、部屋から出た後も、中々筍から目を離せなかった。紫花魁は食欲がなかったのか、白飯も半分ばかり残しており、筍の煮物と白飯を口の中に入れた想像をするだけで涎がたまってくる。 (少しだけ!)  暫しの間葛藤していた松だったが、食べたいという強烈な欲望を抑えらなくなり、素早く手掴みで筍と白飯を口の中に放り込むと、そのまま何くわぬ顔で、一階の台所へ紫花魁達の膳を下げにいく。下女達は、そこ置いといてくれと松に指示し、膳からなくなっているおかずのことなど気にする様子は全くない。松はホッとひと安心し、再び紫花魁の部屋へ向かおうとした。 「おまえはやる事が意地汚いなあ」  だが、後ろから突然覚えのある声が聞こえ、松は青ざめ振り替える。そこには、松がなるべく関わらないようしようと密かに避けていた環と、環と仲の良い数人の留袖新造が立っていた。 「あんたみたいな卑しい女が引っ込み禿で、紫花魁と花火見物まで行けるなんてね。一体私らは何のために必死に客をとって働いてるんだか、情けなくなってくるよ」  環をはじめ、姉女郎達は皆松を蔑んだ目で見下ろしており、松は居た堪れず泣き出してしまいそうになる。 「まああんたは伊都ほど期待されてないから、影でコソコソ花魁の食べ残し食べてる事をお吉さんに言いつけたら、引っ込みじゃなくなるどころか、ここから追い出されるかもしれないねえ」  松は震えあがり必死に頭を下げた。 「言わないでください!お願いします!」 「いやだね。私は今、腹の虫の居所がすこぶる悪いんだ。なんであんたのためにただで黙っとかなきゃいけないんだ」 「お願いします!追い出されたら私どこにも行くところなんてないんです!なんでもしますから!お願いですからお吉さんには言わないでください!」  縋りつくように頼みこむ松を、環は嘲笑う。 「へえ、なんでもするんだ」  冷たい声で言い放つ環の言葉に、松はただ頷くことしかできなかった。
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