第五十二話

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第五十二話

 源一郎に呼び出されたのは、丁度遊女達の昼食が始まる頃だった。ここ最近食欲もなく、食べることに苦痛すら感じるようになっていた梅は、姉女郎達に嫌味を言われながら食事をしなくてすむことに安堵したが、篠から聞いた話しが頭を掠め、大きな不安も抱いていた。 「おお来たか、大事な話しだから、襖もしっかり閉めてくれ」  源一郎は、待ち構えていたように梅を部屋に招き入れる。楼主部屋で改って膝をつきあわせて見る源一郎は、まだ楼主になって日は浅いというのに、随分面構えが変わっているように見えた。気後れする梅を射るように見つめ、源一郎は単刀直入に尋ねてくる。 「遣手の佐知が、おまえが赤子を孕んでいるかもしれないと言ってきてな。身に覚えはあるか?」  開口一番に核心を突かれ、動揺する梅の返事を待つことなく、源一郎は言葉を続ける。 「今日昼見世に来ていた客は中条流の医者だ。明日診てもらって、もし本当にそうだったら直ちに流してもらう。おまえは俺に、間夫なんていないと言っていたからな。身に覚えがないなら恐れる必要はない、ちょっと診てもらってすぐ終わりだ」  無意識に身体が震え、体中の血の気が引いていく。 「…はい」  源一郎の目は据わっており、明らかに猜疑心を持たれているのはわかっていたが、梅は、源一郎の言葉に小さく返事をするに止めた。 (大丈夫、相手が海だって知られなければ、海がここを出入り禁止になることはない)  だが、必死に平静を装い、心の中で自分に言い聞かせている梅に、源一郎は予想だにしない言葉を口にする。 「おまえは、海という名前を聞いたことがあるか?」
「!」  おそらくこの時の梅の顔には、その名を知っているとはっきりと描かれていただろう。 「知っているようだな」 
「いえ、知りません」  梅は、はたと我に返り首をふる。今更隠しても無駄だと分かっていても頷くわけにはいかない。源一郎はそんな梅をじっと睨みつけたまま言った。 「そうか、だったらおまえには関係のない話しかもしれないな。その斎藤海という男はな、吉原のあらゆる見世に現れ遊女を狂わす評判の悪い男だったんだが、もう二度と吉原に来ることはないらしい」
 「どうしてですか?」  本来、嘘を突き通すのであれば、決して聞いてはいけない問いかけ。しかし梅は、自分を抑えることができなかった。 「お願いです!教えてください!海は今どうしているんですか?」
 「認めるんだな?」  源一郎の声には、怒りと確信が深く滲んでいる。遊女を拐かせば、相手の男も酷い目にあうと姉女郎から聞いている梅は、頷くこともできず唇を噛み締めた。目には溢れおちそうなほど涙がたまり、頷かなくとも、梅の反応は、源一郎の言うことを肯定しているも同然だった。源一郎は、梅が認め話しだすのを待っているようだったが、やがて諦めたように口を開く。 「おまえがなぜ頷かないのか大体見当はつくが、もうそんなことする必要はない。斎藤海は妻を娶った。相手は江戸幕府の老中、間部忠義の娘、一介の遊女のおまえなど足元にも及ばないお姫様だ。元々あの男は、幕府お抱えの名門道場の息子でな。俺達が痛い目に合わせることなど中々できない身分の人間だったが、更に手の届かない男になったという事だ。おまえが庇ったところでなんの意味もない」  淡々と話す源一郎の言葉を、梅は茫然と聞いていた。 「とにかく明日、腹の子を流してもらう。話はこれでおしまいだ。もう下がっていい。 佐知に聞いてると思うが、今夜は振袖新造のお前と、引っ込み禿の伊都と松には、紫と花火見物へ行って絵師に絵を描いてもらうことになっているからな。しっかり準備しておいてくれ」 「…はい」 有無を言わさぬ源一郎の言葉に、梅は静かに頷き部屋を後にする。頭が真っ白で、何も考えることができない。廊下に出た梅の足は、自然と、海と出会った開かずの間に向かっていた。 『そっか、俺自分の名前もまだ言ってなかったんだよな、俺は海だよ』 『そう、海って書いて、カイ』  思い出すのは、月の光に照らされた綺麗な笑顔と、その美しい顔とは不釣り合いなほど広く逞しい胸から響く心臓の音。自分の背中を優しく包みこんでくれた腕の温もり。
  (どうして、どうすればいいの?本当に海はここへは来てくれないの?)    今更のように悲しみが胸から全身へ爪の先まで侵食していき、立っていることさえままならなくなる。 (もう一度だけでもいい、海に会いたい…)  重い身体を引き摺るように開かずの間の前までやってきた梅は、引戸の前で歩みを止める。お凛がこの部屋に短刀を隠し自害しようとした事から、今までより頻繁に見回りがくるようになり、勝手に入った者には折檻するという張り紙が貼られていたが、幸い周りには誰もいない。梅が、少し躊躇しながらも引き戸に手をかけると、中から何やら声が聞こえてきた。 「本当に大丈夫なの?」
 「大丈夫だ、この時間は丁度見回りもない」  聞き覚えのあるこの声は、玉楼の若い衆の1人、助八の声だ。自らが見回り役になったのをいい事に、深い仲の遊女を呼び出し、この開かずの間にしけ込んでいるのだろう。相手の遊女が誰なのかまではわからないが、密告する気など毛頭ない。梅はその場から立ち去ろうとしたが、二人の会話にふと引きつけられ耳を傾ける。 「でも、この部屋で昔遊女が首括って死んだんでしょ?お凛もここで自害しようとしたし、昔死んだ遊女の霊が死に誘ってる不吉な部屋だって噂になってて怖いわ」 
「そんなの嘘に決まってるだろ?楼主も女将さんも、おまえ達を脅して言うこと聞かせるために嘘をつくんだよ。そんなことより、菊乃…」
「助八さん…」  思いがけず、相手が姉女郎の菊乃である事がわかったが、そんなことよりも、菊乃に答えた助八の言葉が、梅の心に微かな希望を与えた。 (もしかしたら源兄ちゃんは、私に海を諦めさせるために嘘をついるのかもしれない)  絶望の淵に立つ梅は、若い衆の戯言にすら、縋りつかずにはいられなかったのだ。 「海…こわい、流したくないよ、お願いだから私に会いに来て…」  自分と海ではない男女が、開かずの間で睦み合う声を聞きながら、梅は自らの腹を抱きしめるように撫で、堪えていた涙を流した。
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