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その日はもう春だというのに、空は灰色で肌寒く、雨がしとしとと降っていた。夕霧は中庭に面した濡れ縁にこしかけ、ただ静かに外の景色を眺めている。
「どうしたんだ?浮かねえ顔をして、もうすぐここから出られるってのに嬉しくねえのか?」
夕霧はふり返り、声の主を見るとすぐ静かに首を振り微笑んだ。その顔を見て、源一郎は、改めて綺麗になったものだと感心する。
「妙な事考えるんじゃねえぞ」
「妙なこと?」
不意に声音を変える源一郎に、夕霧は訝しむように尋ねたが、夕霧の作られた表情や口調など、源一郎には通用しない。
「おまえ、まだあの男に未練があるんだろう?」
「…やっぱり、源兄ちゃんには敵わないな」
夕霧は苦笑いをうかべ、突然昔の呼び方で呼ばれた源一郎は、自分がまだ楼主ではなかった頃に戻ってしまったような妙な錯覚を覚えた。そんな源一郎の心情に構うことなく、夕霧は言葉を続ける。
「でもね源兄ちゃん、私はもう、昔の考えなしの禿や新造じゃない。花魁としてこの見世を背負ってきた自負と誇りもある。それに、お金と権力のある男には不細工や年寄りが多いのに、あの人はとても男前だしね。この状況で妙なことをする女がいるならお目にかかりたいよ」
客前では絶対にしない、源一郎の前でだけする口調。こんな話し方をする夕霧を見たら、今までの客達は皆卒倒するだろう。花魁になってからも、時折子供の頃と変わらぬ姿を見せる夕霧に、源一郎は自然と頬を緩めてしまう。
「まあな、だけどおまえは計算高いくせに、時々とんでもなく考えなしなことをすることがあるから、少し心配になったんだよ」
なぜあの時、夕霧の言葉を信じてしまったのか。どんなに美しく化粧をし、手練手管で男に貢がせる花魁になっても、夕霧のあの男に対する情念は、変わってなどいなかったのだ。
自分の不甲斐なさに絶望し、震える指で掌を握りしめたまま、源一郎はただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。
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