第二十八話

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あの日、きよの父親に、100両用意しろと言われた日、毅尚は光楽に金の無心をした。 「100両…」 「ごめん、無理だよな…本当にごめん、俺は最低だ。忘れてくれ」  眉をひそめた光楽を見て、毅尚はすぐに自分が途方もない事を言ってることに気づき言葉を撤回する。だが光楽は、頭を下げ謝る毅尚に、ちょっと待ってろとだけ言い走り去って行った。そして次の日の朝、光楽は100両を手にし、毅尚の前に現れたのだ。  このお金どうしたんだ?と聞く毅尚の言葉を遮り、早くきよのところへ行けと背中を押してくれた光楽。そんな光楽に、少しずつでもお金を返したいと、稼ぎが入るたびにお金を渡そうとしたが、あげたものだからいらないと、光楽は頑として受け取らない。それではどうしても気が済まず、頼むから恩返しをさせてくれと土下座して頼み込む毅尚に、光楽は思ってもみなかったことを言ってきた。 「わかったよ、そこまでお前が俺のために何かしたいというなら、ひとつだけ頼みたいことがある。今度俺は、江戸で人気の美人を描いた画集を出すことになってるんだが、その絵を、俺の代わりに描いてくれないか?」 「え?」 「正確には、俺の絵に似せて、女の絵を描いて欲しい」 「お前の絵に?」  それは毅尚が、どんなに自分の絵が売れなくても、可能な限りやろうとはしなかったことだが、光楽の役に立てるのなら、毅尚に断る選択などあるはずがない。 「是非やらせてくれ!」   始めた当初は、下絵となる画稿は光楽がしっかり描き、毅尚はそれに肉付けして版下絵にするだけだったので、光楽の絵の特徴をより深く知れて勉強にもなると、楽しんで描いてた。しかし光楽の下絵はだんだんと薄い線のみになり、毅尚が殆ど描いたといっても過言ではない状態になっていく。  恩返ししたい一心だった毅尚は、光楽に心から感謝され嬉しく思っていたが、いつものように地本問屋の店番をしている時、自分のした事の重さに初めて気付き青ざめた。  新しく並んだ光楽の美人画集。その表紙になっている絵は、毅尚がほぼ描いたものであり、そんなことは知らない客たちが、目を輝かせて買っていく。自分は少し手伝っただけで、あれは光楽の作品だと自身に言い聞かせながらも、毅尚はその時、自分と光楽がしていたことに、深い罪悪感を覚えたのだ。 「なんかさ、お客さんに悪いことしてるよな、俺」 「お客さんて?」 「お前の絵を楽しみにしていた人達だよ」  光楽の家に呼ばれ酒を飲んでる時、毅尚はつい、言うまいと思っていた胸の内を漏らす。すると光楽は、自嘲するように言った。 「その客の中に、これは違うと言ってきたやつがいたか?」 「いや、いないけど…」 「だろ?みんな光楽っていう流行りの名前に踊らされてるだけなんだ。似たような絵なら、俺の絵じゃなくても構わないし気づかない」 「それは違う!俺は昔からお前の絵が好きだし、蔦屋様だってお前の絵だったから…」  蔦屋の名前を出した途端、突然光楽は、ひきつけを起こすんじゃないかというほど肩を揺らし激しく笑いだす。 「俺の絵だったからって、蔦屋が?あいつは絵のことなんてなんにもわかっちゃいねーよ、俺の絵がちょっと変わった作風だから金になると思って飛びついたんだろう。その証拠に、ほとんどお前が描いた絵にも全く気づいちゃいなかったぜ?あいつにとって俺は、ただの絵を描く操り人形なんだよ」 「そんなこと…」 「うるさい!もういい!」  食い下がろうとする毅尚の言葉を、光楽は明らかな怒りを帯びた声で遮る。 「蔦屋様と何かあったのか?」 「いや、なにもない。ただ今日は、お前と楽しく飲んでいたいんだ。悪いけどもうその話しは終わりにしてくれ」  初めて知る光楽の抱える心の闇を、親友としてちゃんと聞いてやりたいと思うのに、なんと言えばいいのかわからない。 「俺はお前の絵が好きだよ。似たように描いたって、やっぱり全然違う、おまえの絵は特別だ」  やっと出てきた言葉はそれだけだったが、光楽の表情は、いつもの人懐っこい笑顔に変わっていた。 「そうそう、実は俺な、しばらく江戸を離れて旅にでようと思ってるんだ」 「旅?」 「ああ、最近心から気の合ういい女に出会ってな、彼女と旅をしながら、そこで見たり感じたりしたものを絵にしたいと思ってるんだ」 「へえ、楽しそうだな」 「だろ?」  それから後は、本当に他愛もない話で盛り上がり、毅尚は楽しい気持ちのまま光楽の家を後にした。まさかその後、二度と会えなくなるなんて夢にも思わずに…
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