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「花里さんすごく筋がいいですね!」
お凛の描いた鼓草の絵をまじまじと見つめ、毅尚が感嘆の声を上げる。あれから早々に絵を仕上げた毅尚は、約束通りお凛に、絵の描き方を教えてくれた。毅尚の教え方はとても丁寧で威圧的なところが全くなく、初めて本格的に描いたお凛の絵を、大袈裟なほど褒めてくれる。
「本当にびっくりだよ。正直、女性でこんなに絵の上手な人初めて見たかもしれない」
「私以外にも、絵を習う女性っているんですか?」
「いや、自分の周りではあまり聞いたことはないけど、花里さんなら研鑽を積めば立派な絵師になれるかもしれないね」
例えお世辞だったとしても、遊女になるしか道がない遊廓で育ってきたお凛に、毅尚の言葉は鮮烈に響き、喜びが胸に広がった。
「それにしても、持ってうまれた絵心ってやっぱりあるんだなあ」
と、お凛の絵を見ながら感心したように呟いていた毅尚が、突然小さく吹き出し、堪えきれないような笑顔になる。
「どうかしたんですか?」
お凛が不思議に思い尋ねると、毅尚はごめんごめんと謝りながら理由を話しだした。
「いや、ちょっと思い出しちゃって、昔妻が、俺の似顔絵を描いてくれたんだけど、それが本当に面白くて」
「毅尚さんの奥さんも絵を描くんですが?」
「いやいや全然。多分ふざけて描いただけだと思うんだけどね」
そう話す毅尚の顔は、来たばかりの時とは打って変わった楽しそうな笑顔で、お凛はホッとすると同時にその絵に興味を持つ。
「私も見てみたいなあ」
「見るほどのものではないけど、実は今手元にあるんだ、なんか捨てられなくて持ち歩いてて」
「本当ですか!見て見たい!」
目を輝かせ喜ぶお凛の前で、毅尚は懐から巾着袋を取り出し、四つ折りされていた一枚の紙をお凛の前で丁寧に広げる。その様子を真剣に見ていたお凛は、絵の全貌が表れた途端、盛大に吹き出してしまった。
人の絵を笑うのは良くないと、なんとか声を押し殺そうとするが、こみ上げる笑いを抑えることができない。絵の拙さは勿論、矢印で毅尚さんと書かれ、作者きよと署名までしてあるのが、また余計におかしかったのだ。
「花里さん、いいよ笑って、全然僕に似てないでしょ」
「…ッフ、アハハハ」
とうとう我慢できなくなったお凛は、毅尚の言葉に甘え、気づけば涙がでるほど大笑いしていた。
「あー面白い!こんなに笑ったのどれくらいぶりだろう?毅尚さんの奥さんに感謝しなきゃ」
「花里さんが笑ってくれてよかった、今日は来るの遅くなって色々心配かけちゃったから、俺も妻に礼を言わなきゃな」
毅尚は出した絵を再び巾着袋に入れようとしたが、お凛は、中にもう一枚紙が入っていることに気がつく。
「それには何が描いてあるの?」
「いや、これは…」
毅尚は少し戸惑ったように言葉を濁したが、お凛が、見せたくないならいいけどと言うと、大丈夫だよと、もう一枚の紙も広げて見せてくれた。そこには、先ほどの絵とは比べ物にならない巧みな筆使いで、一人の利発そうな女性が生き生きと描かれている。
「これ、毅尚さんが描いたんだよね!やっぱりすごい!この女の人がきよさん?」
「うん」
「へえ、すごく可愛い人だね」
毅尚は照れたように笑い、お凛は一人感心しながら絵を眺めていたが、ふと違和感を抱き尋ねる。
「毅尚さんのこの絵、私と紫姉さんのこと描いてくれてた絵と、随分雰囲気違うね」
「…いや、この絵は、ささっと描いたものだから、仕事の絵とは違うし…」
「そうなの?でも私はこっちの絵の方が好きだな」
お凛がそう言うと、毅尚が、信じられないとでもいうような声でお凛に聞いてくる。
「なんで?」
「うーん、勿論、さっきまで毅尚さんが描いてくれていた私と紫姉さんの絵も華やかで綺麗ではあるけど、私はこちらの方が人間味を感じるというか、私はこっちの絵の方がずっと好き」
どちらも毅尚が描いたものにかわりはないのだが、お凛は、毅尚がきよを描いた絵を見つめ指差しながら、はっきりと本音を伝えた。
「ありがとう…すごく嬉しいよ…」
感極まったような声で礼を言われ、絵に向けていた視線を毅尚の方へ移したお凛は、驚き息を飲む。毅尚は泣いていた。お凛に自分の泣き顔を見せまいとするように俯き、片手で目頭を押さえながら身体を震わせ、涙を流し泣いていたのだ。
「毅尚さん?」
「ごめん…なんでもないんだ。本当に、花里さんの言葉は嬉しいんだ、凄く、嬉しくて…
情けないな、俺、女性の前で泣くなんて…」
違うと思った。毅尚が泣いているのは、嬉しいからなわけがない。ここへ来た時から、毅尚はずっと様子がおかしかった。その理由が一体なんなのか、出会ったばかりのお凛には知る由も無い。だが、泣いている毅尚の姿を見ているうちに、お凛は、胸を締め付けられるような切なさを覚えた。
毅尚を元気づけたくて、お凛は遠慮がちに、しかしはっきりとした意志を持って毅尚の手を握る。驚きお凛を見やる毅尚の顔を真っ直ぐ見つめ、お凛は言った。
「昔、ここにいるのが辛くてたまらなかった時、泣いている私の手を握ってくれた子がいたんです。そしたらすごく心が落ち着いて…。心の痛みが全て消えるわけではないけど、でも、1人ではないって思えるから…」
お凛の心が届いたのか、毅尚は、涙でぐしゃぐしゃの顔を少しだけほころばせて笑う。その笑顔が嬉しくて、お凛もつられて笑顔になった。
「ありがとう、花里さん」
毅尚の礼に頷きながら、お凛はふと、まだ慣れない新造としての名ではなく、毅尚には自分の名前を呼んで欲しいと思う。
「毅尚さん、実は私の名前、花里じゃなくてお凛ていうの、だからこれからはお凛て呼んでくれる?」
「お凛さん?」
「そう」
とそこへ、突然佐知が部屋の中へ入ってきた。
「先生、そろそろお時間でございます」
慇懃な口調で毅尚に声をかけているが、その声には明らかに剣が含まれており、お凛は自分が考えなしな行動をしてしまったと慌てて毅尚の手を離した。佐知は至って平静を装いつつ、お凛と目があうと、微かに顔を歪め、お凛を咎めるように目配せをしてくる。
「あ、すいません」
そんな二人の密かなやりとりなど気づかぬ毅尚は、急いで帰り支度を始める。黙々と片付けを終えた毅尚は、涙をぬぐいながらお凛を見て気まずそうに笑った。
「いや、なんだか恥ずかしいところを見せてしまってごめん。でも、お凛さんのおかげで元気が出たよ、本当にありがとう」
「ううん、私も、絵を教えてもらえてすごく楽しかった」
「お凛さんは本当に筋がいい!きっとどんどん上手くなるよ!これからが楽しみだ」
そう言うと、毅尚はお凛に会釈をして立ち上がり、佐知に促され部屋を出て行こうとする。
「毅尚さん!」
その瞬間、お凛は衝動的に毅尚の名を呼んでいた。
「あの…」
お凛自身、なぜ毅尚を呼び止めてしまったのか自分でもわからず、先の言葉がでてこない。
「?」
足を止め振り返った毅尚は、不思議そうにお凛を見やりながらも、お凛が何か言うのを優しく待っている。焦るお凛の脳裏にふと、今日毅尚に見せてもらったきよの絵が思い浮かんだ。
「あの、今度来た時、毅尚さんがきよさんを描いた時と同じ描き方で、私の絵を描いてもらえますか?」
「花里!先生は立派な絵師なんだ!気軽に自分の絵を描いてなんて頼んでいい人じゃない!」
佐知にきつく嗜められ、お凛も失礼なことを言って申し訳有りませんと謝ったが、毅尚はお凛に向かって笑顔で答える。
「そんなことありません。今度はお凛さんが気に入ってくれた僕の絵で、お凛さんを描きますよ」
「いいんですか?」
「もちろん!」
そんなと止めようとする佐知に構わず、毅尚はお凛に歩み寄り、お凛の目の前に小指をさし出してきた。
「約束します」
お凛は、毅尚の細くて長い綺麗な小指に引き寄せられるように自分の小指を絡める。見た目によらず、固く骨太い毅尚の指の感触を感じながら、お凛はあまりの嬉しさに、小さな子供に戻ったような大きな声で指切りげんまんを歌い、指きったのところでは、思い切り強く指を離した。
「痛い痛い!」
「大事な約束ですから、絶対に破らないでくださいよ」
大げさに痛がる毅尚に、お凛は弾んだ声で念を押す。 毅尚は笑顔で力強く頷き、お凛の心は喜びに震えた。
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