第三十話

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 体中が重い。玉楼の一大行事である新造だしを終えてから、千歳屋は、水揚げや突き出しも楽しみだと益々お凛に馴れ馴れしくなり、これから先のことを考えると、憂鬱と絶望に押し潰されてしまいそうだったが、今はそれよりも、頭の中は毅尚のことでいっぱいだった。 (見物客の中に毅尚さんはいなかった。やっぱりもう二度と、会えないのだろうか…)  あの日、お凛が毅尚の手を握ったことは即座に伝わり、絵の稽古は丁重に断ったと、忌々しげにお吉に告げられた。絵を依頼され蔦谷に連れてこられただけの毅尚が、客として玉楼へやってくることも、お凛の絵を描くという約束が守られることもきっとないだろう。  胡蝶や梅のように、毅尚と深い仲になりたかったわけではない。毅尚に惚れているというのは佐知の勘違いで、ただ、毅尚に絵を教わったあの時間が、新鮮で楽しかっただけ。    そうなのに、そうであるはずなのに、なぜこんなにも胸が苦しいのか。約束ですと言ってくれた毅尚の笑顔や、絡めた小指の感触を思い出すと、涙が溢れそうになるのか  お凛は自らの懐に手を入れ、一枚の紙を取り出す。そこには、毅尚に手ほどきをうけて描いた鼓草が咲いており、心は幾らか息を吹き返したが、ふとお凛の脳裏に、内庭にあった本物の鼓草の姿が掠めた。 (あの鼓草は、まだあそこで咲いているだろうか?)   そう思ったら居ても立ってもいられず、お凛は走って内庭が見渡せる廊下に向かう。しかし、下駄を履き庭へ飛びだしたお凛が見つけたのは、綿毛がすべて飛び去った後の緑色の茎だけだった。   茎を残し飛んで行った綿毛は、風に乗ってどこかへ舞い降り、新しい地でまた綺麗な花を咲かせるのだろう。だが自分はずっと、この場所から飛び去ることはできない。この茎のように、一人この場所に残され、見ず知らずの男達や千歳屋に毟り取られるだけ…。  お凛はその場にしゃがみ込み、残された茎をそっと撫でた。全てを諦めるようにため息をつき、顔を上げたその時、少し低くなった目線の先の景色に違和感を覚える。低木や下草が見栄え良く茂った庭石の下の土が、微かにだが不自然に盛り上がっているように見えたのだ。好奇心に導かれ、お凛は目眩ましのように生い茂った草をそっとかき分け土を掘る。 「これは…」   現れたのは、長さ4寸程の小さな短刀だった。恐る恐る鞘から抜くと、鋭い刃は生々しく光り、お凛は思わず息を呑む。 (なぜこんなところに短刀が?)  それは、玉楼の部屋持ちである菊乃が、間夫だった斎藤海と心中を計るも失敗し、発覚を怖れこの場所に隠し埋めたものだったが、お凛には知る由も無い。銀色に光る鋭い刃に魅入られるように、お凛は短刀の鋒を自らの掌に乗せじっと見つめた。 (これがあれば…) 「花里!」  と、突然佐知に声をかけられ、お凛は慌てて短刀を茂みの中へ隠す。後ろを振り返ると、佐知が厳しい顔つきで縁側に立っていた。 「何してるんだい?」 「鼓草、まだ咲いてるかなと思って…」  お凛の咄嗟の言い訳に、佐知は目を伏せ首を振る。 「あんたはもう立派な新造なんだから、子供じみたことはいい加減にやめておくれ。紫花魁が呼んでる、早く来な」  佐知はそれだけ言うと、すぐに踵を返し去っていった。勘のいい佐知に深く追求されたら隠し通すことはできないと冷や汗をかいたが、意外にもあっけなく緊張感から解放され力が抜ける。    お凛は、佐知の姿が見えなくなるのを確認すると、短刀を鞘に戻し、鼓草を描いた紙と共に胸の懐に隠し持った。 (これがあれば、自分はいつでもこの世から逃げ出せる…)  心の臓を一突きし、朽ち果てる自分を想像した時、死への痛みや恐怖よりも、今の苦しみから逃れられる恍惚にも似た仄暗い胸の高鳴りが、お凛の心を支配する。 (どこかに早く隠さなくちゃ)   思いついたのは開かずの間。梅が皆の目を盗み、頻繁に訪れている場所だが、他に短刀を隠せるところなど思い浮かばない。 「花里!」 「はい、今行きます」  再び奥から聞こえてきた佐知の呼びかけに、お凛は穏やかな声で返事をすると、懐に手をあてゆっくりと立ち上がった。
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