第三十四話

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第三十四話

 堅苦しい儀式を全て終えた初夜、海は、綺麗に並べて敷かれた布団を前に、気まずい思いで座っていた。一方華子は、戸惑う海を落ち着いた表情でじっと見つめている。  散々遊郭で遊びつくしてきた海が、華子を前に、まるで女を知らない男のように振舞ってしまうのは、華子が行きずりの遊女ではなく、これから夫婦になり、一生家族として生きていくかもしれない女だからだ。幸せな家族というものをみたことがない、寂しさを埋めるように遊廓に通い、女を抱いてきた自分にはわからない。 (俺に、この女を幸せにすることができるのか?)  そう考えた時、海は、自分が一丁前に、夫婦になるからには華子を幸せにしたいと思っていることに気づき笑ってしまいそうになる。それはつまり、自分が幸せになりたいということ。この家を出て、自由気ままに生きていくと決めていたはずの自分が、心の奥底では家族を持ち、温かい家庭を築きたいと密かに願っていたのだということ。 「どうしたんですか?」 「え?」 「ずっと難しい顔をしていたのに、今、海様がほんの少しだけ微笑んだように見えたから」  華子の言葉に、海は口元を押さえて赤くなる。このまま黙って向き合っていても仕方がないと覚悟を決めた海は、ずっと抱いていた疑問を、率直に華子にぶつけた。 「あんたはなんであの時、俺の名前を叫んだんだ?」 「海様に勝って欲しかったからです」  こともなげに答えられ、海は驚き目を見開く。 「なんで?あんた俺の噂色々聞いてるだろう?俺は妾腹の子で、本来この家を継げるような身分じゃない、それに…」 「私も妾の娘です、そんなこと、全く珍しいことではありません」 「でも、俺の母親は遊女だった。ここへきてからずっとそのことで周りに蔑まされてきた。それに俺自身、自分が一人の男として慎之介より優れているとは到底思えない、なのになんであんたは…」 「海様」  海の言葉を遮るように、華子はあの試合の時と同じ、凛とした声で海の名を呼ぶ。 「あんたではなく、華子と呼んでください」 「…すまない」  海の言動は無意識なものだったが、華子に真っ直ぐ見据えられ海は素直に謝る。そして再び、華子に尋ねた。 「華子はなんで、俺に勝ってほしかったんだ?」  華子はすぐには応えず、黙って言葉を考えあぐねているようだったが、やがて、可憐な花を彷彿とさせる唇を開きはっきりと海に告げる。 「海様を見た時、自分に似ていると感じたからです」 「!」  その言葉を聞いた瞬間、海は激しい衝撃を受けた。海も初めて道場で華子を見た時、同じ感覚を抱いたからだ。 「まさかあんたも…、いや、華子も、俺と同じ事を思っていたなんてな」 「え?」 「俺も実は、同じことを思ったんだ、でも、あんたみたいなお姫様が、俺に似てるわけないと思ったから」 「ふふ…」  と、突然華子が口元を抑え、こらえきれないというように笑い始める。その笑顔は、美しいが黙っているとどこか人間味のない華子の顔に、愛嬌と親しみを齎らし、海はこの時初めて、華子のことを可愛らしいと思った。 「海様は私を随分買いかぶってくださっているけど、私はお姫様じゃありません」 「え?」  にこやかに微笑んだまま、華子は言葉を続ける。 「お姫様というのは、きっと立派な家柄で、将軍家やら大名やらの娘として大切に育てられた方を言うんでしょう。私の母は普通の料理屋、商人の娘です。父には正妻がいましたし、私は父の正式な娘として育てられることはありませんでした」 「…」 「私を育ててくれたのは、祖父母と乳母の千草です。父は時々私に会いにきて、私を猫可愛がりしてくれましたが、そのうち、父の子どもとして認められているのは正妻の息子達だけなのだということを知りました。でも別に私は、それを悲しいとか辛いとか思ったことは一度もないんです、ただ…」  それまで淡々と自分の身の上を話していた華子が、そこで初めて言葉を詰まらせる。 「ただ?」  海が、華子の言葉の続きを促すように問いかけると、華子は穏やかだった表情を切なげに歪めて海を見つめた。その瞳を見た時、海はまるで、自分自身を見ているような錯覚を覚える。 「ただ時々、自分が何者なのかわからなくて虚しくなるんです。千草も祖父母も、私にとてもよくしてくれて、何も不自由などないはずなのに、なぜかいつも満たされず、何も心から欲しいと思えない。父を慕っているはずなのに、自分は父を喜ばせるためだけに存在する人形のように感じてしまって…」  堰を切ったように感情をあらわに話しだす華子に、海の魂は共鳴した。それはきっと、同じ境遇のものにしかわならない、唯一無二の感覚。 「初めてだったんです…海様を見た時、私は初めて、何かを心から欲しいと思いました。こんなことを言うのは、女のくせにはしたないと思われるかもしれません。でも、私はもう、父が与えてくれるものを、ただ嬉しそうに笑って受け取るだけの人生は嫌なんです!私は、慎之介様ではなくあなたと夫婦になりたい、海様と生きていきたいんです!」  頬を紅潮させ、海への激しい恋情を打ち明ける華子を、どうして拒否などできるだろう。華子は、海の境遇も、海がしてきたことも全て知った上で、慎之介よりも海を欲してくれたのだ。 「本当に、俺でいいのか?」  華子の頬に手を伸ばし、海は、何度も遊女達にしてきたように優しく触れる。だが、目の前にいるのは遊女ではなく、自分の妻となり、一生一緒に生きていくかもしれない女。  華子に問いかけながら、海は自分自身にも問いかけていた。もう今までのように、相手の気持ちが重くなったら二度と会わないようにすることはできない。この女と子どもを作り、家庭を作り、ずっと支えあって生きていく。果たして自分に、そんな真っ当な人生を本当に歩むことができるのか? 「海様がいいのです。海様じゃないといやなのです!」  答えなどわからぬまま、海は、涙目で自分を見つめる華子の壮絶な色香に吸い寄せられるように口づけする。そのままゆっくりと、敷いてある布団に華子の身体を横たえると、夜着の紐を解きながら首筋に顔を埋めた。 「海様…」  美しく気高い華子が、海に愛撫されるたびに自分の名を呼び、緊張したように震える様は可愛らしく愛おしい。遊女だろうが、江戸幕府最高峰の権力者の娘だろうが関係ない。この腕に抱けば、皆海にとって自分を満たし癒してくれる可愛らしい女。 「華子、俺は華子が思っている以上に、女に対して不誠実な男だった。それでも、お前は俺がいいと思えるか?」  はだけた胸元から見える乳房を揉みしだき、人に触れられたことなどないであろう部分を優しくなぞりながら、海はもう一度だけ確認するように華子に問いかける。ここまできて自分の欲望を抑えるのは至難の技なことはわかっていたが、海はもし、やはり嫌だと華子が言ったら、本気でこの場から立ち去るつもりだった。  しかし華子は海を拒否せず、熱のこもった瞳で海を見つめ頷くと、海の背中に腕を回し、受け身でしかなかった身体を海に擦りよせる。 「海様がいいのです」  もうすでに何度も聞いた、華子の、自分に対する情愛を隠さぬ真っ直ぐな言葉。海は噛み締めるように頭の中で反芻し、華子の身体を強く抱きしめる。 「もしかしたら、優しくしてやれないかもしれない」  情欲を抑えられず、吐息まじりの声で華子にそう囁くと、海は、優しく触れるだけだったそこへ指を差し入れた。小さく声を漏らす華子の様子を眺め、しばらくの間、慣らすように指を動かしていた海は、初めての恐れから自然と閉じてしまう華子の足を半ば強引に押し開き、もう限界近くまで立ち上がっている海自身を、華子の身体にゆっくりと挿入していく。  慣れ親しんだ感覚に充足感を感じながらも、海は華子の苦痛を少しでも和らげたくて、汗に濡れた額を優しく撫でてやる。とその時、痛みを耐えるように歪む華子の表情に、この家に戻る前、最後に抱いた遊女、梅の姿が重なった。 (梅は今、どうしているだろう)  遊女でありながら、男を知らぬ少女のような初々しさと、妖艶な色気を合わせ持つ、海にとって印象深い不思議な女。だが、海の脳裏に浮かんだ梅の姿は、海の名を呼ぶ華子の声にかき消される。  海は、今目の前にいる、自分の妻となった女を労わるように、繋がったばかりで震える華子の身体を、優しく愛撫し口付けた。
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