第三十五話

1/2
前へ
/114ページ
次へ

第三十五話

 それは、今まで一度も見たことのない夢だった。年の頃、四つにも満たないように見える幼い自分が、小さい掌でしっかりと母の手を握り、優しく微笑む母を見上げ笑っている。そこまでは、物心ついてからも覚えのある光景。違うのは、もう片方の掌に、父慎一郎の温かく力強い温もりがあること。  今住んでいる屋敷とは比べようもない、質素で慎ましい家屋の庭を、楽しそうに歩く3人の姿は、どこから見ても幸せな家族そのもので、海はこれが実際にあった出来事なのか、願望が夢となって現れたものなのかわからなくなる。   自分を真ん中にして手を繋ぎながら、父と母は笑顔で会話をしていた。 「ひろと海にも見せてあげたいな、川とは比べ物にならない、この空みたいに広いんだ」 「この空みたいに?本当ですか?」 「本当だよ、初めて見た時感動して、だからこの子の名前も海にしたんだ」  父の言葉で、海は二人が、自分の名前の由来になった海について話していることに気づく。 「そうだ、今度三人で海を見に行こう」 「本当に!いいんですか?行きたい!」  華やいだ表情で笑う母を見て、海も思わず嬉しくなる。 「楽しみだね、海」 「あい!」  まだ言葉足らずな海の頭を撫でる母は、今の海から見ると、まるで無邪気な少女のようだ。父はそんな海と母を優しく見つめていたが、どこからか見知らぬ男が現れ、父に何かを小声で囁く。その様子を見る母の顔がみるみる曇っていくのを幼いなりに感じとった海は、繋いでいる母の掌をギュッと握りしめた。 「それじゃあ、また来る」 「…はい」  自分達から離れていく父の背中を、切なげに見つめる母の横顔を、海はなすすべもなく見上げている。思い出した。記憶の底に埋もれていた、幼すぎるありし日の記憶。   この日を境に、父は自分達のところへほとんど来なくなった。父が母に会いに来るのは、年に数回。その数も、年をおうごとに少なくなっていき、やがて来ることはなくなった。三人で海へ行く約束も果たされることはなく…  再び父と再会したのは母が亡くなった日。最後に三人で会った日から、二年の月日が経っていた。だが、そんな未来など知るよしもない母は、海の目線と同じ高さにしゃがみこみ、不安気な海に語りかける。 「大丈夫よ、父様はまたすぐに来てくれるから」 「うみいく?」 「うん!海の名前と同じ、広い海も見に連れてってくれるって、楽しみだね」 「あい!」  素直に返事をする海の頭を愛しげに撫でながら、母はもう一度、今度は自分に言い聞かせるように呟いた。 「きっとまたすぐ、会いにきてくれる…」  と、突然、海を包み込むような母の声が、憎しみのこもった女の声に変わる。 『もう来る気などないくせに!適当なことを言うな!その気もないのに期待させて、涼しい顔で突き落とす!お前は鬼だ!』 『ここから早く出てって!ここはあんたみたいな奴のいるところじゃない!!出てけ!出てけ!おまえなんてここから出て行け!!』 『こんな男は死んだほうがいい!』  目の前には、恐ろしい般若の仮面を被った女達が現れ、小さな子どもだった海も、気づけば今の姿に戻っていた。般若となった女達は、その瞳から涙を流し、海に憎しみをぶつけんと追いかけてくる。海は腰を抜かしそうになりながらも、必死になってその場から逃げ出した。 (怖い!怖い!助けてくれ!誰か!)  無我夢中で走っているうちに、海は目の前に小さな扉があるのを見つける。   あの時と同じ、そこへ入りこめば梅が待ってくれている。会いたかったと嬉しそうに笑って、怯える自分を優しく抱きしめてくれる。視線の先に光が差し込み、扉の向こうに一人の女が立っていた。 (梅だ!)  影になって顔は見えないが、海は縋るように手を伸ばす。    はやく自分を抱きしめて、どうしたのと言いながら、信頼しきった無邪気な笑顔で笑ってほしい… (うめ…)  
/114ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加