その1

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その1

「帰ってこいって。」 通話アプリのビデオ通話。 彼の顔をできるだけ大きく見たくて、いちばん大きいスマホを買った。それでも、ぜんぜん物足りないんだけど。 画面越しのレインの表情からは、何も読み取れない。 アタシが待ち望んでいた言葉。 ずっと、ずっと、そのひと言を待ってた。 嬉しくないわけがない。 でも。 喜んでいる場合じゃないよね。 レインとは、高円寺のライヴハウスで出会った。 彼はライヴDJだった。アタシはクラブDJだった。 相容れない二人の周りで、いくつもの事件が起きて。 最終的に、彼はDJを卒業し、アタシは彼の代わりにライヴDJになった。 彼は東京を離れ、アタシたちは付き合い始めたその日から遠距離ラヴァーズになってしまった。 それでも、まったく後悔はない。 平日はウェブデザインの仕事をがんばる。週末はライヴハウスでスピンをしてパンクスたちを踊らせる。 月に何日かはまとめて有休を申請して、札幌の大きな書店を任されているレインのために、飛行機でビューンと飛んで行って、泡沫の時を一緒に過ごす。 仕事の自由が利かないレインはいつも申し訳ながってるけど、アタシが好きでやってるんだもん。それに、アタシが行った時に、いつも彼は意地でも仕事を入れないようにしてくれてる。オンナとして、「愛されてる」って分かるだけで、十分に苦労の価値はあるんだよ。 そんな生活が、もう2年か、3年かな。 必ず終わる、そう信じてがんばってきたけど。 まさか、こんなタイミングだなんて。 レインと出会った高円寺のハコは、とっくに閉店しちゃった。 彼との思い出の場所はもうない。 ライヴハウスの命は儚く切ないものだけど。 今はとても「切ない」なんて言える状況じゃない。 あの大・大・大嫌いなウイルスが、アタシたちの大事な世界をひっくり返しちゃったから。 いまライヴハウスは崖っぷちに追い詰められて、瀬戸際でどうにか踏ん張ってる。 最初は「大丈夫でしょ」と思っていた。 それが徐々に「やばいかも」に変わり。 今アタシたちは、手足を縛られて、ただその日を生きてる。 こういう時、仕事がウェブなのはホントに助かる。 職場からPCを支給された。 簡易のデスクは大急ぎで購入した。 集中して仕事をしていれば、この業種は職場でも自宅でもそれほど変わりはない。 外に出る時はマスクをつける。しっかり手を洗ってうがいをする。人に移さないことが、自分にも移らないってこと。 正解は分からないけど、やるべきことはやってるから、辛くはないよ。自分のことだけならね。 「ライヴハウス界隈の人間」としてのココロは、自分が死ぬよりも辛いかもしれない。 ライヴができないのは我慢できる。 ライヴに行けないのも我慢する。 でも、大好きな大好きな仲間たちが、この苦境に成すすべもなく、もがき続けているのをただ見ている。それがたまらなく苦しい。 アタシにできることは、せいぜいライヴハウスのチャリティーグッズやサービスを利用して、これ以上思い出の場所がなくならないように手を貸すことだけ。 DJとしてのスケジュールは真っ白だけど、みんなが元気だったら、必ずまた集まれるから。 その時まで、力を合わせてギリギリの闘いを続けるんだ。 レインに会いに行くこともできなくなって、もともと多かったビデオ通話の時間がさらに増えた。 全国の、全世界の、会いたくても会えない恋人たち。いったい、どんな気持ちで過ごしてるのかな。 アタシとレインは、できるだけ自然にふるまっている。ビデオ通話をオンにしたまま、会話しながら家のことをしたり、同じタイミングでコーヒーを飲んだり。その場所に、一緒にいるかのような工夫をして、つながりを感じてる。 本音を言えば、すべてのことを振り切って、札幌行きの飛行機のチケットを予約しよう!と、何回も考えたけど。 そんなこと、するわけがない。 倫理?常識?自粛? 確かに、それも大切。 でも、最終的にはそこじゃないんだ。 お互いがお互いを、誇れるような自分でありたい。 それが、アタシとレインを結びつけた理由なんだから。 画面に映るレインの顔をまじまじと見つめながら、アタシは頭の中で言葉を探した。 「やったね!」とも言えないし。 「あっ、そうなんだ」でもないし。 アタシのちっぽけなボキャブラリーでは表現しようがない。 黙ったままのアタシの気持ち。レインはよく分かってる。 「複雑な思いだよね。」 「うん。」 「サニィいち個人としては?」 「めちゃ嬉しい。」 そこまで言って、アタシは思わず笑ってしまった。レインも笑顔を見せる。その表情に、アタシは大いに救われた。 「情勢を考えると正解なんて分からないけど、とにかく会社命令だから。東京に戻ることになったよ。」 「おつとめご苦労さまでした。」 「ありがとう、サニィ。」 付き合うようになって、本名で名前を呼び合っていた…のは、ほんの数回だけ。照れくさいというより違和感でしかなくて、すぐに二人ともDJとしての名前「レイン」「サニィ」に戻った。ホントの名前が他人行儀なんて変な感じだけど、そう思うんだからしょうがないよね。 「いつ、帰ってくるの?」 「本社からは“なるべく早く”って言われてる。本店も業績が落ちて、立て直しのために体制を新しくするんだって。」 「頼りにされてるねー。」 「どうかな、状況はかなり厳しいよ。札幌店は移転か撤退もあり得るらしい。本店も今はビル全体で休業してるからね。連休明けには再開予定だけど、それだって怪しいし。」 「そうなんだ。」 「こっちでも、バイトさんに何人か辞めてもらったんだけど、正直いやな役目だよ。みんな仲良くさせてもらってたしね。東京ではさらに嫌われ役をやらなきゃならないだろうし…。」 そこまで言って、レインは首を軽く振ってこっちを見た。 「いや、サニィにはそんなこと関係なかったよね。愚痴になっちゃってごめん。」 「そんなことないよ。レインの話でアタシに関係ないことなんて、何もないから。」 そう言って、アタシはスマホの画面をコツンと叩いた。 レインも同じように、コツン。 アタシたちのココロのグルーミング。
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