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晴己は、帰り際に社長室へ寄った。
ドアをノックする。
「失礼します。」
声が震えているのを晴己は自分でも感じた。
「どうした。社長室に来るなんて珍しいね。」
町田社長は穏やかに答える。
晴己は意を決して話し始めた。
「入所して10年、僕は必死でレッスンを受けてきました。人気になるため、有名になるために、努力してきたつもりです。」
「もちろん君の努力は知っているよ。ファンからの人気だって絶大だ。すばらしいことだよ。」
「じゃあなぜ、僕はデビューさせてもらえないんでしょうか。何か理由があるんですよね。」
「もちろん、理由なくデビューさせないわけじゃない。でもその理由は、君自身に気付いてほしいんだ。」
晴己は黙り込んでしまう。理由なんてこれまでたくさん考えてきた。考えて考えてそれでも分からなかったから、こうして社長室まで勇気を振り絞って尋ねに来たのだ。
黙っている晴己に町田社長は続けて話す。
「君を初めてオーディションで見た時に、その容姿の美しさにこの子は大スターになると直感で思ったよ。そしてレッスンを受けるまじな姿勢、そこにも私は感動した。だけれども、君はこれまでの人生上手く行き過ぎている、そう感じたんだよ。挫折や苦痛を味わったことがない。アイドルとしてデビューして生きていくことは簡単なことじゃない。人生の中にはたくさんの困難が待ち受けているし、アイドルとしていくなら普通の人以上にたくさんの苦しさや辛さも経験するんだ。それでも、アイドルはファンを笑顔にする存在でなければならない。分かるかな。意地悪を言っているように聞こえるかもしれないが、アイドルでいるっていうことは、常にみんなに笑顔を与えられる存在でい続けるということなんだ。そのためには、君はまず困難なことを経験する必要があると思った。だから、同期や後輩がデビューしていく中、デビューできないっていう一つの大きな試練を君に与えたんだ。」
晴己は、その大きく透き通った瞳で町田社長を見つめる。町田社長の言っていることは間違っていない。
町田社長は晴己の目を見つめながら優しく低いその声で話し続ける。
「この間の、後輩たちのコンサート。あれはきっと、君にとっては、とてもつらいコンサートだっただろう。経験だって、人気だって勝っているのに、バックで踊ることは君にとっては大きな苦痛だったと思う。それでも君は、ステージ上ではファンの人たちにとびきりの笑顔とダンスを届けていたね。本当に素晴らしかったよ。これで課題1はクリアだ。満点だ。そう思った。」
「課題1?」
「そう、課題1だ。君がアイドルとして、ずっと成功し続けるために、必要なことの一つが困難、苦痛の経験だった。きみはそれを見事に乗り越えた。立派だったよ。でもね、あとひとつ、君には欠けるものがある。君が望まれた環境で育ち、いろんなものに恵まれているからこそ気づけないことだと思うんだ。私は、それに自分で気づいてほしい。もちろん私から伝えることも簡単だ。でもね、自分で気付けた方がその大切さを強く感じられると思うんだ。」
「・・・・・」
「君にはアイドルとしての素晴らしい素質がある。絶対に素晴らしいアイドルになれる。だから、自分に足りないものはなにかに気付いて、成長して、トップアイドルになってほしい。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「うん。わたしは、君に本当に期待しているし、小さいころから知っている君を息子のように思っている。応援しているよ。」
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