最初は「悪いことをするために」韓国へ行きました。

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最初は「悪いことをするために」韓国へ行きました。

(序) 「お隣の国」と言えば誰もが韓国か中国のことを思い浮かべる。そして今、徴用工の問題などで日韓関係は戦後最大の危機にあると言っても過言ではない。従軍慰安婦のことが騒がれたと思ったらまたこの有様である。「一体この国は何なんだ?」と思っている方も多いと思う。またネットでは韓国はあたかも日本を陥れる「悪の権化」のような言い方をされている。  本当にこの世界最大の反日国家はそんなに非道な国なのだろうか?韓国に住む一般人の考えも「反日」で凝り固まっているのだろうか?かつて十四回韓国へ行き、韓国語も話せる私はそのようには思っていない。十四回韓国へ行ったが、治安も良く、困ることなんかは何もなかった。「反日」の目に遭ったことなど一度もない。  私が韓国に興味を覚えたのは朴正煕の時代。まだ大学生の頃であった。毎日KBSのラジオ放送をなぜか聴くようになっていた。時は一九八〇年代初頭である。  この国に興味を持つ者など珍しく、また、学生運動の生き残りが大学を闊歩していた。そして彼らの興味の対象は韓国ではなく、北朝鮮であった。だから、言葉も「韓国語」とは言わず「朝鮮語」と言っていた。  朴正煕が暗殺されて全斗煥に政権が移る頃であったろうか?  本屋で「朝鮮語入門」というテープつきの本を見て早速「朝鮮語」を覚えようとした。  なぜ韓国だったのかというと、韓国が当時は「反日」国家ではなく、「反共」国家であったからである。  当時の大学生の興味関心は金日成と「チュチェ思想」に向けられていた。  また、韓流ドラマも韓流スターもいなかった。  そして韓国のイメージは「独裁国家で呻吟する国民達」であった。  しかし、KBSの放送は違っていた。日本の放送(特にラジオ日本)と同じような論調で、「北」のことを厳しく糾弾する内容であったが、音楽なんかもあり、独裁国のイメージはなかった。  朴正煕は、日本に習って近代国家を建設することに躍起となっていた。だから「反日」という言葉は敢えて使わず、「克日」と言っていた。  そして、この八十年代に韓国は「漢江の奇跡」を成し遂げる。  私が中学で習ったところによると「北は工業国で南は農業国」のはずであった。  「いつかは一人でこの国を訪れてみよう。勿論、韓国語もきちんと習得して。」  そう思った。  そして、韓国語のことであるが、勉強してみて驚かざるを得なかった。  先ずはハングルである。  「こんな合理的な文字があったのか?」  そしてわずか三日でハングルが書けるようになった。  実は、ハングルは日本が統治するまでは、一般には使われていなかった。李氏朝鮮の高級官僚(両班)は漢字を使っており、ハングルなんかは庶民の文字として馬鹿にしていたのだ。また、一般人の識字率は低く、ハングルの普及には至らなかった。  しかし、日本が統治したことによって小学校が建てられた。  日本から教師が派遣されていたので、仮名が中心であったが、やがてハングル教育も行われるようになっていった。ネトウヨさん達は「日本が韓国に学校を建ててやり、インフラも整備してやった。」とよく言うが、これはある程度事実である。  ハングルは仮名以上に合理的な文字である。韓国語を表記するにあたって、これほど考えられた文字はない。  私は、いつしか誰に読まれてもいいように日記をハングルで書くようになった。  そして、約三カ月でカタコトながら韓国語が話せるようになった。 飛行機で韓国人と隣になると決まって「キョッポ?(在日韓国人)」と尋ねられるようになった。 (一)第一回韓国訪問               そんな私が初めて韓国を訪れたのは一九八九年、ソウルオリンピックの翌年の冬であった。  当時、「韓国へ行く」と言えば決まって買春が目的であった。 初めての海外旅行に男一人で来ているのだから、そう思われても仕方がない。  これ以後、私は計十四回韓国へ行っているが、嫌韓を主張する人達からよく聞かれる。  「何か反日的なことは言われなかったか?」  答えは「一回もなかった」である。  嫌韓のネトウヨ君達は韓国へ行ったら必ず「反日」の目に会うと思い込んでいるらしい。  勿論、ぼったくりタクシーなどもないことはないが、そんなものはフィリピンやロシアやタイの方がひどい。  まあ、こんなことを言えばネトウヨの諸君から「サヨク」と言われそうなので、この辺で止めておく。    金浦空港で飛行機を降りて円をウオンに交換してソウルの街に降り立った。  ひっきりなしにタクシーが客を乗せていた。  第一回めの訪韓である。 *  当時、私はある反共団体に所属していた。かなり熱心にそこが出している出版物を読み、ウルトラ右翼になっていた。  当時の私の職業は高校の教師。  その反共団体に入るまでは組合の青年部長を務める「左翼」であった。従って、短期間でウルトラ右翼になっていたのだ。  当時はまだソ連という国が存在しており、日本共産党はソ連共産党と協力しあっていた。そして教師の組合であった高教組は共産党系であった。  そんな中で堂々とウルトラ右翼的な主張を展開していたのである。  私は社会科の教師であったが、大体社会科の教師という連中はほとんどが「左翼」であった。だから、完全に社会科教師の鼻つまみ者であった。  勿論、職員会議でも授業でも堂々と持論を展開した。    右翼の運動に関わろうという人達の中には、国家という大きなものがあったので、そこを自身の拠り所としようとしてそこへ逃げ込んだという人達がいると聞く。しかし私は違っていた。  教師の仕事にも同僚の教師や生徒にも何か不満があったというわけではない。ただ、「共産主義」という巨悪に立ち向かい、小中学校で日教組に洗脳されてしまっている生徒達を目覚めさせようという責任感に燃えていたのだ。 当時はソ連という国がまだ存在しており、昭和天皇も元気にご活躍されていた。  私がその反共団体に入ったのは、その出版物を通して「反共」の主張が正しいことだと思ったからである。  例えば、毛沢東はチベットで百万人を殺したとか、スターリンは何千万という人間を直接・間接に殺したとか、ポル=ポトは自国民の三分の一を殺したとか、全て事実なのである。  当時の高教組は共産党系であり、私のような反共的な主張には眉を顰めていた。  しかし、私は主張した。組合の教師の前で、生徒達の前で。    また、月に一回開かれる反共団体の会合には必ず出席し、東京で開かれた全国大会にも行った。そして、その東京での大会の翌日には反共の宣伝ビラを撒いた。  ビラ配りは、さすがに危険なものであったので、団体では「ジョギング」と呼んでいた。  その「ジョギング」にはAコースからEコースまであって、Aコースというのは、女性が一人で撒いても安全なもの。そしてEコースは共産党などの悪口を書き連ねたもので、危険なので男性3人以上で回ることになっていた。  私が東京の帰りに撒いたビラは当然Eコースのものである。  新幹線を新大阪で降りるとF氏とK氏が二人でやってきて「今晩はF氏の家に泊まろう」と言い出した。私は二つ返事でOKした。そしてビールを飲み交わしながら猫の頭を撫でたりし始めた。「明日ジョギングやるけどいいよね。男三人いるからEコースやけど覚悟しておいて」「いいですよ。でも僕は兵庫県の職員だから県内はまずいので、できるだけ大阪府内で撒こう」「ああ、わかってるって」  F氏の家は兵庫県と大阪府の県境にあったのだ。  こうして私はジョギングに参加するために翌日の月曜日は年休を取った。  六時頃に起きて数十枚をポストに入れていく。そして朝飯。それから本格的にポストへ入れていく。私があるアパートの郵便受けにビラをねじ込もうとしたら「赤旗日曜版」が入っている。私は言った。  「Fさん、今の家、赤旗が入っていたんですけど」  「ああ、それはまずいよ。撤収してきて。僕も昔ジョギングをやっていた時に共産党に囲まれてビラを置いて逃げたことがある」  「ラジャー」  その時、右翼の街宣車が通った。  「あのうるさい連中はどうしましょうか?」私は冗談を飛ばす。  「ああ、大丈夫。彼らは味方だから、このビラを見せたら『頑張って下さい』と言われるよ」  こうして夜の六時までかかって数千枚のビラを撒いていったのだ。  また、現役の教師であることを買われて、この団体で二回講演をやったこともある。  一回目のタイトルは「日教組支配の学校の恐怖」というものだった。 約五十人の会員を前にしての講演であるが、授業で慣れていたので、全く緊張することはなかった。授業の延長だと思えばよいだけの話である。  「皆さんの中には、お子さんを持って革新自治体に住んでいらっしゃる方もいると思います。そこで、日教組や高教組がどんな教育を行っているか関心を持たれた方はいらっしゃるでしょうか?奴らは『民主教育』という名の偏向教育を行っております。例えば『守れ憲法九条』とか、『核兵器に反対しよう』とか言うことを平気で話しております。この偏向教師どもは、ソ連が侵攻してきたら『核兵器反対』なんて寝言にも言えないということを知らないのです。また、私の勤務する学校でも『ザ・デイ・アフター』や『炎の第五楽章』などという映画を子供達に見せました。マカレンコの集団主義教育を行っている教師もいます。これは、生徒を強制的に班分けし、出来ない班は『ボロ班』『屑班』などと呼び、挙句は『トロツキスト』なんて呼ぶものです。子供達が先生からもらってくるプリント類には必ず目を通しましょう。それから、突然子供が『トロツキストって何?』なんて聞いてきたら、学校で何を習ったかしっかりと聞きましょう」  まあ、こんな内容で一時間話した。  二回目は「マルクス主義の矛盾」というタイトルで話した。  話の内容は授業とほぼ同じであった。  「マルクスの考えは労働価値説から始まっています。これは、すでにアダム=スミスによって唱えられていたことですが、例えば一時間の労働を千円とします。どの労働者が二時間働いても産む価値は二千円になるというものです。では、一人の海女さんが二時間かけてサザエを採って来て、もう一人の海女さんが同じ二時間で真珠を採って来たとしましょう。これが同じ値段で売れるでしょうか? それから、資本主義の段階では資本家とプロレタリアートの階級対立が起こり、『必然的に』資本主義は倒れて社会主義が出来上がると考えました。『必然的に』です。ならば、労働者は団結なんかする必要はないのです。そうじゃないですか?」  まあ、こんな内容である。また、サンケイの「正論」にも寄稿し、佳作で通ったこともある。要約すると次のようなものである。  「教科書は先人の功績に畏敬の念を抱かせるものでなくてはならない。しかし現在の歴史教科書を見ると、返って日本人の血が厭わしく思うようになるのではないか?例えば豊臣秀吉には『太閤さん』の面影はなく、検地や刀狩りや朝鮮出兵で人民を苦しめた人物としか映らない。また、日露戦争の記述を見ても与謝野晶子や内村鑑三などが出てきて、イギリスの教科書にさえ出てくる東郷平八郎なんか一行も出てこない。そして、十五年戦争(先の大戦)についても、『日本は馬鹿な戦争をやった』で片付けられてしまっている。また、子供達に歴史上で最も尊敬する人は誰かと尋ねると『田中正造』などという意外な答えが返ってくる。また、歴史教科書は『荘園制』や『絶対王政』とか果ては『天皇主権』などという無味乾燥な歴史用語で埋め尽くされ、維新の英傑や戦国の勇将の名前は出てこない。こんな教科書に誰が興味を持つだろうか?」 *  現代のネトウヨは、嫌韓・嫌中であるが、当時の右翼には韓国のことなどは眼中になかった。勿論、中国はソ連同様に「敵」であり、親中華民国(台湾)であった。  八十年代の右翼にとっての「敵」は何と言ってもソ連、中国、そして北朝鮮であった。  韓国は反共国家であったし、北の脅威にさらされていたのだから、「味方」と考える者も多くいた。  そして、そんな中での韓国訪問であった。  因みに、「韓国は日本に対しては居丈高だが中国様の言うことには逆らわない」ということを言う人がいる。しかし、これは事実であろうか?  実は韓国は一九九二年まで中華人民共和国という存在を認めてこなかった国なのである。日本やアメリカが一九七〇年代に中華人民共和国を認めたが、韓国はその間も中華人民共和国を認めず、台湾(中華民国)を正統な政府として認めてきた国である。だから「中国様云々」というのは嘘である。中国は朝鮮戦争では北朝鮮に味方して韓国へ攻めてきた「敵」だったのだ。今でも韓国人の三分の一は親米であっても親中ということはない。  さて、金浦空港からタクシーでホテルまで行った。  当時の韓国旅行の大半の目的は「買春」であり、その需要も供給も揃っていた。  ホテルへ着くなり、いきなりホテルマンが私の持っていたタバコを取り上げてそのタバコを吸いながら日本語で言った。(韓国では目上の人の前でタバコを吸うことは大変失礼なことである)  「あなた日本人ね。韓国語話せるか?」  「英語だったら自信はあるんですけど韓国語は勉強し始めたところです。ところで、そのタバコ、マナーに反していませんか?」  男は慌ててタバコを消した。そして言った。  「ここはアメリカじゃないよ。韓国だよ。韓国語も話せず一人で何処へ行こうって言うの?よかったら五万円でカイド(ガイド)つけるけど。とうか(どうか)?」  五万円もするガイドがいるわけはない。これは買春を誘っているのだ。  「じゃあ、そのガイドとやらを呼んで下さい」  初めての海外一人旅で不安でもあったので、私は了解した。 こうして最初の訪韓は買春旅行として終わった。  ただ、そんな中で私が「買った」女の子が自分達の家まで私を連れて行ってくれたことは良かった。どうも私は「日本人の中では最も感じのいい人」だったようである。  その、みんなから「ケンケンさん」と呼ばれているその子は一通りソウルを案内してくれた後、「今からハウスに電話するから」と言って公衆電話から、ハウス(と言えば聞こえはいいが、実際は売春宿)に電話を入れた。  私がタクシーに乗って彼女が言うところの「ハウス」に到着すると、宿の女将さんが出迎えてくれた。その女将さんからは反日感情のかけらも感じられなかった。恐らく、私が到着するなり韓国語で自己紹介をしたからだろう。一面にオンドルの暖房の行き渡った普通の民家のようだった。  そこで食事をご馳走になり、何人かの売春婦と話をした。  「海外の事情を知りたければ、そこで売春婦を買うことだ」ということは聞いたことがあったが、それはどうも真実らしい。約十名の若い女の子が日本語の勉強をしていたり、またある者は花札に興じていた。  そんな中で私が世界史と英語の教師だと聞くと、一人の女の子が話しかけてきた。  「あなたは歴史の先生なのね。日本はいけない。嘘の歴史を教えている。百済が唐と新羅に滅ぼされたことは知ってるよね。そこから教えなくてはいけない」と言った。  歴史観というものは国によって違うものだ。韓国では百済からの亡命者が日本を建国したと教えているようである。日本で教える歴史とは随分と違う。  また、韓国では「韓壇古記」という神話から歴史を教えているらしい。石器時代や縄文時代から入っていく日本人から見れば、大きな違和感を覚えるだろう。  しかし、私は歴史に対する見方というのは一つではないと思っている。  例えば、ナポレオンはフランスから見れば英雄であるが、ドイツやロシアから見れば侵略者である。また、ナポレオンを侵略者と見るヨーロッパ人もいれば、解放者と見るヨーロッパ人もいるのだ。  だから、最もフェアな考えとして、「その国にはその国の歴史があるのは当然」と見るべきなのではなかろうか?  例えば安重根は日本から見ればテロリストであるが、韓国から見れば英雄である。そして、それでいいと思うのである。この時代はちょうど「教科書問題」が発生していた時代であったが、韓国が日本の歴史教科書に異論を唱えるのは明らかに「内政干渉」であるが、同時に、このような韓国の歴史観に日本人のネトウヨが異議を唱えるのも「内政干渉」なのではなかろうか?(因みに、当時はまだ「ネトウヨ」なんか存在していなかったし、それどころかインターネットさえなかった。)  私はもう少し彼女から韓国の歴史教育について聞きたかったのだが、やがてホテルへ帰る時間が来た。「まあ、韓国の歴史教科書は私も読んだことがあるし、別の機会でいいか」と思い、韓国のヤクザさんの車でケンケンさんとともにホテルまで送ってもらった。  そのヤクザさんは私よりもはるかに英語が上手かった。  そしてケンケンさんと別れてから私は単独行動をとったが、生粋の方向音痴の私であり、その上に海外は初めてときている。下手くそな韓国語で道を聞きながらソウルの町を歩いた。道を聞くとみんな親切に教えてくれた。そこには「反日感情」のハの字も感じなかった。  地下鉄では老人が日本語でソウル市庁舎までの地下鉄の乗り方を教えてくれた。女子高生に「コロンビルディング、オディイムニッカ(コロンビルディングはどこですか)?」と尋ねたら大笑いされたが、暫くしてからコロンビルディングを見つけたその娘が戻ってきて、手を引いて場所を教えてくれた。思っていたよりも優しい国民だと感じた。  これが私の第一回目の訪韓の感想である。「反日」なんてどこにもなかった。 (二)第二回韓国訪問  その年の夏休みに私はもう一度韓国を訪れた。今回は一人ではなく、大学時代のゼミの同級生と一緒だった。目的は「買春とキーセン遊び」。あまり褒められた旅行ではない。そしてソウルではなく釜山へ行った。関空からひとっ飛びで行ける。それから今回はホテルまでガイドが付いていた。大学時代の同級生のYは韓国にはあまり興味がなかったが、私が「五万円だせばやりたい放題」と言ったので一緒に釜山へ行くことになったのだ。もう一人ツアーに参加していたのでYはそのおじさんに小指を一本立てて尋ねた。「あのー。つかぬことを伺いますが、これは好きですか?」即答で反応があった。「そりゃあんた、嫌いな人はいないでしょうが」  釜山の空港に着くと女性の現地ガイドが待っていた。我々は正直に来た目的を伝えた。「キーセン遊びできるところはないでしょうか?」「わかりました。早く行かないといい女の人がいなくなるので行きましょう」  もう夕方が近かったが、我々を乗せたタクシーは料亭のような所で止まった。  「それでは私はここまでなので後はご自由に」  そうガイドが告げると我々は大広間に通された。女の子がお雛様のように並んでいた。 その料亭の女将さんが来て日本語で言った。  「どれか好きな子を選んで下さい」  我々は女の子を「指名」すると、彼女らは我々のいる所へやってきて酌をした。やがてキーセン達はカラオケの装置を持ってきてカラオケを始めた。みんな韓国語の歌であった。しかし私はその歌を知っていたので韓国語で一緒に歌った。ツアーに同行したおじさんと友人のYは露骨に顔をしかめた。そして私が韓国語が話せることがわかると、女達は韓国語で色々な質問をしてきた。  「オディエ サルゴ イッスムニカ(どこに住んでいるのですか)?」  とか聞かれたので  「オオサカエ サルゴ イッスムニダ(大阪に住んでいます)」と答えた。  そして酒宴が始まった。Yはそんなに飲む方ではないし私も下戸であった。しかし知っている韓国語の歌を歌う時は「買った」女と一緒に歌った。歌は「ソウル賛歌」という歌であった。韓国語で「ソウルに住もう」というところを「釜山に住もう」と換えて歌った。そして次に三人の男と三人のキーセンは「ノレバン(カラオケ)」へ行こうと言い出した。そしてカラオケバーに入ったのだが、ここでYが不満をぶちまけた。  「おい、これは疲れさせて夜にはさせないという作戦やないか?」  「そうやなあ、出よか」  こうして我々はホテルへ直行した。六人はみんな私の部屋へ集まってビールを飲んだ。その時にキーセンの女性の一人がゴミ箱の中に余ったビールをぶちまけた。あまりのことに私達は開いた口が塞がらなかったが、女は平然と答えた。  「たいじょうぶ。たいじょうぶ。ホテルの人が掃除するから」  私とYはひたすら疲れていた。そして何もすることなく女を帰し、残りの二日間は慶州の町を尋ねることになった。ワゴン車に乗せてもらって出かけた。二時間程で慶州に到着した。到着すると慶州の古墳公園へ案内された。  そこへどこのおばちゃんかは知れないが、日本語がペラペラのおばちゃんがやってきて公園を案内してもらった。話に聞くとただの土産物屋の人であったが、「徳川家康」を全巻読んだという日本通であった。ここでも「反日」の目には遭わなかった。否、それどころか韓国語を話す私にみんな親切であった。  こうして二回の韓国旅行でソウルと釜山を訪れた。
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