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第十話
この家に帰ってきて母に会うのは、兄の葬儀以来だった。
屋敷に入ってからも、相変わらず子どものようにキョロキョロしながら感嘆の声を漏らす素直なリリーに心癒される。
だが同時にジャンは、父との決別を決意した日の事を思いだし、心臓を乱暴に鷲掴みされるような胸の痛みまでも鮮明に蘇っていた。
「なぜアランなんだ、せめてジャンなら」
「あなた!なんてことを!」
あの日、ヘッドヴァン家の輝かしい太陽だった兄アランが、乗馬中過って転落するという不慮の事故で、嘘のように呆気なく亡くなった悪夢の日。知らせを受け、矢も盾もたまらず屋敷に駆けつけたジャンは、偶然にも父の本音を耳にする。
「アランがどれだけ特別だったか!おまえもわかっているだろう!ヘッドヴァン家の後継者に相応しい、私の誇りだったのだ!」
ジャンは、閉ざされたドアの前から立ち去り自分の部屋に戻ると、兄を失った悲しみと、父への憎悪で混乱する気持ちを抱えたまま、声をあげて号泣した。
昔から気がついていたのだ、父にとって自分が、取るに足らない存在であることを
【主は、アベルとその供え物を顧みられた。
しかし、カインとその供え物は顧みられなかったのでカインは大いに憤って顔を伏せた】
幼い頃、心に引っかかった聖書の一節。
なぜ神はカインの供物は顧みず、アベルの供え物だけを顧みたのか?
今の自分なら簡単に答えられる。神はアベルを愛しカインを愛していなかったから。ドア越しに聞いた父の言葉は、とっくにわかっていた事実を、確信に変えただけ。
(まあでも、脚本としてはありきたりだな。人間が起こした最初の殺人が兄弟殺し、しかも理由は自分よりアベルの方が愛されていたからなんて、動機としては陳腐すぎる)
悲劇の主人公のように泣いていた自分を心の中で皮肉ると、まだ生きていた頃の兄の声が聞こえてくる。
『お前はすぐそうやって聖書にケチをつける、まったく、罰当たりなやつだな』
呆れた声で言いながらも、思い出の中の兄がジャンに向ける視線にはいつも、年の離れた弟に対する愛と慈しみが滲み出ていた。
そう、確かにジャンは、自分よりずっと優秀で父に愛されている兄に劣等感を抱き嫉妬していた。しかしそれ以上に、深く兄を愛していたのだ。
『ジャンの作る話は面白いな』
子供の頃から空想好きで、自分で考えた物語を夢中で話すジャンを、父はくだらないと貶し切り捨てるだけだったが、兄はいつも楽しそうに聞いてくれた。ジャンが劇作家になろうと決めたのだって、元をたどれば兄の言葉がきっかけだった。父に愛されない孤独を超えるほどに、ジャンにとって兄は、かけがえのない存在だったのだ。
いつでも会えるなどど思わずに、もっと沢山会っておけばよかった。もっと生きて、いつか劇作家として成功する自分を見てほしかった。
その日、兄への憧憬を胸に、父との決別を決意したジャンは、兄の葬儀が粛々と行われた後、両親に何も告げず屋敷から出て行った。
見るからに弱り果て、悲しみにくれる母のことは心配だったが、父の本心を聞いてしまった以上、ヘッドヴァン家に止まる理由など何もない。しかしこの兄の死こそ、ジャンが父と対峙せざる負えなくなる始まりだったのだ。
厳格な長子相続制のイギリスでは、家名も財産も長男が全て引き継ぐものであり、次男は聖職者や法律家になるのが常とはいえ、長男ほど将来を束縛されることはない。
だからこそジャンは今まで、ひたすら脚本を書いて劇場に自分を売り込み、独自のコネクションを作り、比較的自由に劇作家として活動することができていた。
そんな地道な活動が身を結び、エドワード伯というパトロンも得たジャンは、昨年ついに、カインとアベルをモチーフにした愛憎劇、ディアフォトスが成功し、ようやく仕事が軌道に乗ってきたところだったのだ。
だが、兄アランが亡くなり、後継者がジャンのみになった途端、父はジャンの元に使者をよこし、今住んでいる下宿先からすぐ出て屋敷に戻って来いと命令してきた。その上、兄の婚約者だった、女王の重鎮、セシルの娘と結婚しろとまで言ってきたのだ。
ジャンを愛してもいないのに、お前は兄の代わりだと言わんばかりに呼び戻し、自分の意のままにしようとする父に吐き気がする。
頻繁に訪れてくるようになった使者から伝えられる、父の命令や脅しに心底うんざりしたジャンは、大学時代からの友人で、同じく劇作家のトーマスの家に転がり込んだのだが、トーマスはジャンに、冷静な言葉を投げかけた。
『お兄さんが亡くなったからには、お前もいいとこ取りだけするのではなく、ヘッドヴァン家に産まれた責任も負うべきなんじゃないか?
お前の悩みは、俺からしたら贅沢すぎるよ』
劇作家になるのに、ヘッドヴァン家の名が役に立ったことは否定しない。ジャンの作品が世にでるきっかけを作ってくれたエドワード伯爵がジャンに近づいた理由も、彼自身の隠された趣向もさることながら、ジャンが、宮廷と結びつきの強いヘッドヴァン家の次男であったことも大きいだろう。
しかしジャンは、これから先、父からどんな妨害を受けたとしても、例えヘッドヴァン家を勘当されることになったとしても、絶対に劇作家をやめず、一生作品を書き続けていくのだと決めていた。それだけ、劇作家として成功する夢は、ジャンにとって生半可なものではないのだ。
「あいつの言う事が、一理あるのもわかっているがな…」
「え?」
一人何事か呟くジャンに、アンナとリリーが不思議そうに振り返る。
ジャンはなんでもないと誤魔化すように笑顔を浮かべ、母の待つ部屋のドアをノックしようとするアンナに頷いて見せた。
確かに自分は、貴族である立場を利用しているだけなのかもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
全ては、劇作家として成功するという夢のため。ジャンは大きく深呼吸すると、アンナがノックし、恭しく開けたドアの奥へと進んでいった。
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