第九話

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第九話

「すごい…」  田園の広がるのどかな風景の中、隅々まで手入れの行き届いた美しい庭園と、その広大な庭に佇む石造りの壮麗な大邸宅。邸宅の前には緑の草花に囲まれた人工池があり、鯉が悠然と泳いでいる。 「そろそろ食べごろだな」  背中ごしに聞こえるジャンの言葉に思わず笑ってしまいそうになりながら、ルカは、見るものすべてに感嘆の声を漏らさすにはいられなかった。そんなルカに、ジャンはまるで、幼い子どもを促すように、早く行くぞと声をかけてくる。  庭の花々や景観に見とれ自然と歩みを止めてしまっていたルカは、ジャンの声音で自分の行動があまりにも子供じみていたことに気づき頬が熱くなった。  「申し訳ありませんジャン様、つい…」 「いいよ、それより何回も言ってるだろ、ジャン様と呼ぶのは禁止、はい、今すぐ練習」 「え?」 「ほら、はやくジャンて呼んでみな」  戸惑うロイをじっと見つめ、ジャンはルカの唇から自分の名が呼ばれるのを急かすように待っている。ここに来るまでの間、散々話し方や仕草の練習をさせられていたが、普通の会話の時まで、年上で身分の高い人間を気軽に呼びつけにすることなど中々できない。 「…ジャン」  それでも、自分と家族を助けてくれたジャンの命令は絶対だと、ルカは違和感をねじ伏せジャンの名前を呼ぶ。するとジャンは、同性に向けるには不自然なほど魅惑的な表情で微笑み、いつの間に摘み取ったのか、庭に咲いていた一輪の薔薇をルカの目の前に差し出した。 「いい子だ、受け取れ、俺の可愛いリリー」 「…」 「こうゆう時はどうするんだっけ?」 「ありがとう、ジャン」  ルカは顔から火が出るほど恥ずかしくなったが、ジャンからの女性的な扱いを拒否することなく薔薇の花を素直に受け取る。最初のうちは、ルカが中々うまく女の演技をする事ができないと、あからさまに苛立ちを露わにしていたのに、この短時間の間で、今や完全に優しい恋人役が板についているジャンに、ルカは感心してしまう。  オーク座の舞台の本番まで、今日を入れてあと12日。ルカはそれまでに女性的な仕草を身につけ、セリフを覚え、一度もしたことのない演技を観客の前でしなくてはならない。  ジャンに言われるがまま練習しながらも、ルカは自分が引き受けてしまったことの重責を、ヒシヒシと感じていた。 「うーん、最初より大分よくなってはきたけど、やっぱりまだまだ仕草もセリフもぎこちないんだよな」  ジャンはルカに渡した薔薇を再び自らの手に取り、トーマスから借りた、ルカには少し大きめのダブレットから覗くシュミーズの胸元に器用に飾ると、一人ごとのように小さく呟く。 (そんな簡単に女の真似ができるようになるかよ)  助けてもらったからにはやるしかないと分かっていても、ルカにだって男としてのプライドがある。ジャンの言葉を聞き、ついそんな本音が口先まで出かかってしまう自分を抑え、ルカは黙ってジャンを見上げた。  だが、思いのほか気持ちが顔に出てしまっていたのだろう。 「おいおい、そんな反抗的な顔すんなよ」 「あ…ごめんなさい」  心を読まれたような気がして慌てて謝ると、ジャンは首を振ってルカに笑いかける。 「いや、謝らなくていい、俺、お前のおとなしそうに見えて、実はすごく反骨心があって気が強いところ気に入ってるから」  それは、初めて言われた言葉だった。今まで真面目で大人しいと言われることはあっても、反骨心があるや、気が強いなんて言われたことは一度もない。どう返事をすればいいのかわからず目を伏せるルカを凝視したまま、ジャンは言葉を続ける。 「お前ってさ、多分、色々なこと我慢して、本当の自分を抑えて生きてきたんだよ。それがきっとアポロンで爆発したんだろうな」  そうなのだろうか?幼い頃から、ただ母と妹のために自分はどうすべきなのかだけを考え必死に生きてきたから、ルカは本当の自分という概念すら持ったことはなかった。 「俺さ、おまえがあの窓から飛びおりてくる時背中に羽が見えて、この世の者じゃない天使だと思ったんだ。天使と言っても子どもの可愛い天使じゃないぜ。あの悪魔と戦った最強の大天使ミカエル様」  ジャンの言葉があまりにも恐れ多くて、ルカは首を横に振る。 「俺にはそう見えたんだからいいんだよ。とにかく俺はそれくらいお前をかってるの。俺はこれからもお前に沢山無理難題ぶつけるけど、自分には無理だと絶対に思わないでほしい。それにな、演劇で男が女を演じるのは決して恥ずかしいことじゃないんだ。俺も学生時代女役やったことあるし」  ルカが驚きの表情を浮かべると、ジャンは悪戯っ子のように笑う。 「大学の正規の教育にちゃんとなってるんだぜ、演劇は。まあ修辞学を用いて相手にに語る雄弁術を身につけるには演劇が有効で、学生が世に出て仕事していく上でも役に立つってのが表向きの理由だけど、人間は本能的に演劇で得られる魂の喜びを知ってるんだよ。正直まだまだ俳優や劇作家の地位は低いし、演劇なんて娼館の慰みと変わらないと言う奴もいるが俺はそうは思わない。演劇には人の心を動かし感動させる力が絶対にあるんだ」  途中ルカには難しい言葉も沢山あったが、ジャンの熱のこもった口調は、ルカの中にある羞恥心を確実に打ち砕いていく。 「ジャン様!」  とその時、屋敷から初老と思われる一人の女性が出てきてジャンの元へかけよってきた。 「窓からジャン様の姿が見えてびっくりしました。帰って来るとわかってたらすぐ馬車でお迎えに参りましたのに」 「馬車は尻が痛くなるからあまり好きじゃないんだ。それより今日父はいないよな」 「旦那様は今週は会議でロンドンのタウンハウスに滞在中です。知ってて今日いらっっしゃったんでしょう」 「まあな」  ジャンとその女性は、互いに目配せしあい、親しげに笑いあう。 「ところでそちらの方は?」 「ああ、この子は俺の新しい恋人だ」  ルカが、人前で何を言うんだと焦り必死に首を横に振ると、その女性はわかってますよとルカに頷いてみせる。 「本当に、小さい頃からイタズラ好きで、人をからかってばかりいるんですよジャン様は、でも根はとても純粋でいい子なので、どうぞこれからも懲りずに仲良くしてやってくださいね」 「いい子ってアンナ、俺はもう23だぞ」 「23なんてまだまだ若いひよっこですよ。姿形ばかりは赤ん坊の頃からすっかり成長して立派な若者に見えますけどね」 「まったく、アンナにはかなわないな、ところで母さんの具合はどう?」 「そうですね、以前より少しは良くなってきましたが、やはりアラン様が亡くなられたショックは計り知れないものがあって…」 「そうか…」  アランという名前が出てきた途端、先ほどまでの和やかな空気は消え失せ、二人の間に重苦しい空気が流れる。ルカは自分が立ち入ってはいけないことだと感じ、黙って二人の様子を見守っていたが、やがてアンナが空気を変えようとするように明るい声でジャンとルカに言った。 「でも、奥様もジャン様の姿を見ればきっと安心して少しは元気になられると思うので早く参りましょう。えーと、ジャン様、この方のお名前は?」 「リリーだ」  ルカが答えようとする前に、当然のようにジャンが答え、ルカは仕方なく黙りこむ。 「ではリリー様も一緒にこちらへどうぞ」  結局、今回も名前を訂正することができず、複雑な気持ちを抱えながらも、ルカは二人に続き、気後れするほど壮麗な屋敷へと入っていった。
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