第十一話

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第十一話

「奥様、ジャン様がお帰りになられました」  部屋に入るなり、母リディアは、共にやってきたアンナやリリーには目もくれず、一心不乱にジャンの元へ走りより我が息子を抱きしめる。 「ジャン!よかった!帰ってきてくれたのね!」  兄アランの葬儀以来、母に会うのはおよそ1か月ぶりだったが、あの時よりもさらに青白く血色のなくなった顔と、鎖骨が浮き出るほど痩せこけてしまった身体は痛々しく、ジャンは、もっと早く母に会いにくるべきだったと後悔した。  母が憔悴していることは、アンナからの手紙でわかっていたのに、父への反抗心と仕事にかまけて、ジャンはあれから一度も家に戻っていなかったのだ。その上やっと顔を出したかと思えば、自分が今からするのは金の無心。 「母さんごめん、実は今、新しい舞台の公演を控えていて忙しくて、中々この家に顔を出すことができなかったんだ」 「まあ、そうだったの。相変わらずお仕事頑張ってるのね。私もまた是非観に行きたいわ。次は一体どんなお話なの?」  頭ごなしに反対する父と違い、元々演劇好きの母は、ジャンが劇作家をしていることに理解を示し、前回のディアフォトスも、アンナと共に観に来てくれていた。そんな母に、少しの後ろめたさを覚えながらも、ジャンは、今日きた本来の目的を口にする。 「それが、実は今色々と問題が山積みで、公演できるかどうかの瀬戸際なんだ。こんなことを母さんに頼むのは本当に心苦しいのだけど、50ポンドほどお金を貸してほしい」  言った後、母の目に、呆れと失望が宿るのを覚悟していたジャンだったが、なぜかその瞳には安堵が滲み出ており、ジャンは意外に思いながら母を見つめた。 「ジャン、あなたがエドワード伯爵ではなく私を頼ってくれてとても嬉しいわ。フランシスともよく話しあったのだけど、アランが亡くなって、あなたがヘッドヴァン家の正式な後継者になった以上、あなたにきちんと伝えておかなくてはいけないことがあるの…」  だがその言葉で、母の態度が、父に何かしら吹き込まれたゆえのものであることに気づき、ジャンは嫌な予感しかせず身構える。 「あなた今、エドワード伯爵に色々と支援してもらっているのよね?」 「それはもう、あの人は僕の作品を世に出してくれた恩人で、僕にとってなくてはならない大切な人だ」  ジャンがそう答えると、リディアはあからさまに不快な表情を浮かべた。 「そう。でもねジャン、どうかエドワード伯爵とはなるべく近いうちに縁を切ってほしいの。 その約束さえ守ってくれれば、私はいくらでもお金を貸すし、あなたの活動の支援だってするわ!お願いよジャン!私の言う事を聞いて!エドワード伯爵から離れてちょうだい!」   ただ事ではない母の様子に困惑しながらも、ジャンは、自分にお金を貸す条件が、演劇をやめることではなく、エドワードと縁を切ることであることに疑問を抱く。 (どういうことだ?母は、父が俺に劇作家をやめさせ、家に戻そうとしているのを知っているはずだ。なのに、エドワードと縁を切れば金を貸すどころか俺の支援まですると?)  舞台を公演するにはパトロンである貴族の支援が必要不可欠だが、意外にもジャンは今まで、演劇関係でヘッドヴァン家からお金を借りたことは一度もなかった。といっても、基本的に使える武器は最大限に生かそうという性格なので、ヘッドヴァン家の名は頻繁に利用しているし、前まで住んでいた下宿先は、母の実家ジーク家の所有であり、家賃や小遣い等は母のポケットマネーから出ていたので、親の脛を齧ってないとはもちろん言えない。  しかしジャンは、昔から演劇を見下している父への反発から、劇作家としての金銭的援助や後ろ盾を、なるべくヘッドヴァン家には頼らないようにしていたのだ。  今回はエドワードが推薦した少年をジャンがやめさせてしまった事情が事情なだけに、背に腹は変えられないと母を頼る苦渋の選択をしたが、劇作家を続けるための継続的な支援まで望んでいなかったジャンは、母の申し出に戸惑いを隠せない。 「母さん、母さんが俺を支援してくれるという申し出はとても嬉しいよ。だけどさっきも言った通り、エドワードは僕の恩人なんだ。なぜ縁を切らなくてはいけないのかきちんと説明してくれないと、さすがにそんな約束を守ることはできないよ」  ジャンの言い分は最もであり、先ほどより幾分落ち着きを取り戻した母は、ジャンに理由を話し始める。 「確かにあなたの言う通りよ。でもねジャン、私達は前々からあなたが、女王陛下の不興を買って宮廷から追いやられたエドワード伯爵と懇意になったことを心よく思っていなかったのよ。だけどアランが、ジャンは彼と組んで政治的に何かしようとする奴じゃない、純粋に演劇を愛してるだけだとずっと言っていて、だから私達も、今まではあなたとエドワード伯爵の関係に口出ししないようにしていたの」  ジャンは、自分のいないところでまで、ジャンの自由を守ってくれていた今は亡き兄に、心からの感謝を覚えたが、ヘッドヴァン家がエドワードとジャンの関係を警戒していたことに驚愕する。  エドワードが、かつてはエリザベス女王の寵臣として宮廷政治の中枢にいたことも、今から10年ほど前、女王の侍女を妊娠させて女王の不興を買い失脚した事も、ジャンはもちろん知っていた。  初めてその話を聞いた時は、エドワードの行動に呆れ、それで妊娠しない男に走ったのか?などと意地悪なことを言ったものだが、エドワードがジャンに語ったのは、想像をはるかに超えた、女王への深く歪んだ想い。  それまで男しか愛することができなかったエドワードが、一方的ではあるものの、初めて本気で恋に落ち、心から愛した女性が、恐れ多くもエリザベス女王その人だったのである。    女王について語る時のエドワードの瞳には、常に尊敬と情愛が溢れており、特に、当時まだ少年だったジャンも熱狂した、スペインの無敵艦隊との戦いを前に、女性でありながら危険な戦前に立った女王が、兵士達の前で行ったティルベリーの演説を一言一句漏らさずジャンに伝える時のエドワードの様子は、まさに恋する少年そのもので、ジャンはいつもその熱量に圧倒されてしまう。 『でもわからないな?それほどまで女王を愛していたのなら、なぜ寵臣という立場を失うような馬鹿な真似を?』 『人間というのは、神が創造した中で一番愚かな生き物なのかもしれない。女王は私の唯一絶対の女神だった。だが、どんなにあがいても、私が女王と結ばれることはない。そう思い悩むうちに、私は衝動を抑えることができなくなった。女王の側に仕えている侍女を、女王を思って抱くことで、自分の欲望を満たそうとしてしまったんだ…』  破滅するとわかっていながら、欲望に支配され突き進んでしまったエドワードの気持ちを、ジャンは全く理解することができない。ただ確実に言えるのは、今のエドワードに、政治的な下心など一切ないということ。 「母さん、俺はもちろん、エドワードだって政治的に何かしようなんて全く思ってないよ。あの人は女王を心から崇拝しているし、俺を支援してるのだって、純粋に演劇や芸術を愛してるからってだけだ」  だが、ジャンの確信に満ちた言葉に首を振り、母は、ジャン以上に強く決然とした声で言い放つ。 「ジャン、あなたはまだ若いからわからないのかもしれないけど、巧妙に人を騙すことができる人間というのは、善良な人の皮を被っているものなのよ」  この時、ジャンはようやく、母のエドワードへの嫌悪感が、ただの誤解からくるものではないことに気がついた。そして、この後語られる母の言葉の中にこそ、ジャンに演劇をやめさせるための父の策略が隠されていたのだ。
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